114.共同幻想

 結城が苦笑する。


「これ、どうしよっか?」


「……逃がしてあげたら?」


「そうだね」


 金魚をマリモから外そうと結城が手を伸ばす。

 掴もうとした手が、空を切る。

 指が金魚の体を通り抜けた。


「ありゃ、この金魚ちゃんも実体がないんだ」


 口と餌を外そうとせずとも、金魚はマリモの一部を食い千切ると、自分から離れた。

 欠けたマリモが間を置かず、内側からモリモリ再生した。


 釣竿の束縛から逃れた金魚もまた、ニュートンを無視する。

 身体はもちろん、尾ひれ一枚に至るまで地球へ引っ張られない。

 重力シカト。


 真下へ落下せず、中空を回遊し始める。

 釣られた屈辱など微塵も感じさせず、優雅に上昇気泡の間を縫って泳ぐ。上品でいて生意気なその様は、嘲け笑いが聞こえてきそうだった。

 水槽上部を斜め下へ向かって大きく旋回しながら、光の水へと戻っていった。


「金魚って飛ぶんだね」


 僕は呆然とポツリと呟く。


「ふふ……そうだね、知らなかった。ボクたちの知識なんて世界のごく一部だ」


 そんなことは、有り得ない。


 この空間だけ世の理から外れている。

 夢にさえ出ない極彩色の世界。

 現実にここにあるのは水槽と客だけだろう。


 だが存在する物だけが事実とは限らない。

 僕らだって、社会という共同幻想の中に生きている。



 ふと隣では、釣りに飽きた三郎が竿を手放していた。

 釣り糸を水槽に垂らしたまま、竿を壁面に立てかけている。

 いつ倒れて落ちてもおかしくないバランスにも関わらず、幾ら糸が引いても竿がしなっても、崩れることがなかった。

 引っ張る金魚も引っ張られる竿も重量がないからか。頭が混乱する。


 空中のあぶく。直径、飴玉程度。

 三郎はボーッと眺めていたかと思うと、それをひとつまみ。

 口に持ってきて、パクリと食べてしまった。


「あっ……そんな物食べて、なんともない?」


「ん? んー……別に? 美味しいよ。ソーダ味。あーくんも食べる?」


 彼の他にも、空中に漂うあぶくを掴んで口に入れている客がいた。

 振る舞いに気恥ずかしさがあるらしく、大人はやらない。もっぱら子供がおやつとしてつまみ食いしている。

 それを周囲の大人も注意しない。

 どうやら安全だと周知されている。


「あぶくをか……」


 三郎が漂っているひとつを摘み、こちらに差し出す。


「ほら、さーやが取ってあげたよ。あーくんどうぞ」


 手の平に乗せられる。

 あぶくは重さがなかった。それかとても軽い。

 感触がない。手触りがない。指でこすっても、限りなく軽いワタである、としか。


 当然だが、あぶくを食べた経験などない。仙人ではないのだから。

 ワタ状のお菓子ならある。

 だがそれは市販されていた物だ。これは得体のしれない水槽から湧き出てきた。

 ただちに影響がないとしても、後から腹を下したりしないだろうか。


「食べないの?」


「……いただきます」


 おそるおそる口に入れる。

 あぶくは舌の上で、ゼロ秒以下で溶けて消えた。雪より柔らかく、融解が速い。

 代わりに、少しだけ痺れる甘味と香りが口内に広がる。


「本当だ、ソーダだ」


「ねー?」


「レモン味」


「味違うんだね。さーやのはイチゴ味だったよ」

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