112.極彩色

 何も入っていなかったはずの水槽は、今や、青紫の光の水でなみなみと満たされている。

 風もなしに水流が生まれ、水面に小波が立つ。画材の水入れに着けた絵の具だった。幾つもの色の線が、混ざり合わずに漂い続ける。あるいはラーメンのスープに溶けない油玉。


 白いあぶくが底から絶えず昇り、時に水流に流される。それらは1粒1粒が自ら放光していた。拍動していた。光の水の中、相互に光を送り合い、またたく。

 水面に出ると、弾けて消えず、中空へと上昇を続けた。まるでシャボン玉。小さい泡が無数に空間に浮かぶ。放光が部屋をライト代わりに照らしている。

 オーブだった。


 そして水槽の中には魚がいた。

 金魚だった。極彩色の。

 リュウキン、デメキン、タンチョウ……。種々様々の群れ。

 いずれも極楽に住んでいる魚だ。体表に何種類もの色を抱いている。尾びれ背びれが豊かで、透き通り、天女の羽衣が如き美しい。半透明な身体は骨まで透き通っている。

 水槽水やあぶくの放光を、体表の極彩色で照り返し、拡散反射させる。


 水、あぶく、金魚。それらの相互作用により、水槽が光彩で入り乱れている。


「……何が見えてる?」


「金魚。綺麗だね」


「光のあぶくも?」


「うん、水槽の水もね。多分、同じ景色を共有してるはず」


「……これ、幻覚?」


「さぁね。ボク、幻覚見たことないもん。みんなで、一緒の幻想の中にいるのカナ?」


 釣竿も、水もあぶくも金魚も、最初はなかった。

 それは間違いない。

 あのジュースを飲んだ途端に現れた。

 ホログラフィーや透過液晶といった機械仕掛けではない。

 幻覚であるという以外に、説明がつかない。


 まさか飲み物に、幻覚剤か何かが仕込まれていたのか?

 そんな薬物紛いの物を配っていたのか?


「安全なのかな、これ……」


「心配しすぎじゃない。ほら、アイツも何ともなさそうだよ」


 三郎が既に水槽前に屈み込んでおり、興味深げに覗き込んでいた。

 多少うっとりと魅了されているが、害はなさそうだ。

 彼に無害だからといって、僕らに有害でないという保証などないが。


 幻覚……幻覚ならば、僕に一家言ある。

 自慢ではないが、幻覚アマチュア3段である。

 幾多の幻を経験してきたからこそ言える。


 ……たぶん、問題ないだろう。とだけ。



「ボクたちも参加しようよ」


 結城が僕の手を取り、先に立って歩く。三郎のような強引さはなく、自然と彼の後を追う。

 水槽の外周部の前に座る。

 受付でグラスを選んだ時と同じく、僕を挟んで両隣に結城と三郎が位置取る形になった。


 水槽の光が、周囲の人々の顔を照らし出している。

 淡く柔らかい光。

 蛍より、行灯より、優しい煌き。

 水底から見上げる、水面から遥か下に届く可視光だった。


 金魚は生きている。

 間近でこそより実感する。

 透けた体は光を反射するだけの屈折鏡。

 だが確かに、1匹1匹に命の脈動を感じた。

 時折のまばたき。口のパクパク開閉。極小の心臓の動悸が、透明な身を震わせる。


 三郎が釣り竿の糸を水槽に垂らす。

 僕も、結城もそれに習った。


 糸の先、針はなく、白のマリモがついている。

 三郎は紫、結城は黒。

 グラスに入っていたジュースと同じ色だ。

 飲んだジュースによって、人によって色は違った。


 マリモは音もなく水下へ沈んでいく。

 重りも付いていない。

 ユラユラと水流に翻弄されながら、糸が張るまでゆっくり落ちていく。

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