90.おふざけ
3着目に彼が着て出てきたのは、形自体は最初の浴衣とあまり差異がなかった。
少し布地が重そうなものの、スタンダードな浴衣である。
色は暗い紫地。
全体に白線の四角が重なるように引かれ、内側にクロッカスが大きく描かれ、外側に花びらが舞い散っている。
「へへ……どう? どう?」
彼が先2着より、さらにゆったりとした所作で1回転する。
顔に悪戯っぽい満足げな表情が浮かんでいた。
帯後ろは文庫結び。
細かく見えなかったが、飾りではなく手で結んだ跡のようだった。
かなり綺麗で丁寧な結び方だが、特別奇妙な箇所などない。
「綺麗な浴衣だね」
「えへへ、そうでしょう?」
「イロモノって言ってなかった? 1着目とあまり変わらないようだけれど」
「ここ見て」
結城がこちらに背を向ける。
あらわになった白いうなじ……その下の、襟を彼は指差す。
襟にはポリアミド樹脂の糸が伸び、先端部に長方形の厚紙が付いている。要は値札だ。
目をこらすと印字されたシールに、0が3つ、4と6が1つずつ並んでいるのが目に入った。
「ろ……64000円!? こんなの買えないだろう! 高すぎる!」
とんでもない金額だった。
仮に結城との財布の中身を合算しても全然足りない。
いや、僕の1年分の小遣い総額でも届かない。
学生には不釣り合いな高級品。
最初は重そうなだけの印象だったが、値段を知るやいなや、舞踏会のドレスのようにさえ錯覚する。
しかし冷や汗を掻く僕をよそに、結城は歯を見せてにししと苦笑した。
その様子から購入に踏み切る意思はないと伝わってくる。
「だからジョークだって。綿紅梅の高級浴衣なんて買う訳ないでしょ。ちょっと着てみたかっただけだよ」
気づけば、少し離れた位置にいる女店員がじっとこちらに視線を向けている。
睨むような目つきではない。ただ少し緊張した面持ちである。
許可されているとしても、万単位の高級衣類を客が試着する不安があるのだろう。
万が一傷でも付けば、1着1000円のTシャツなど話にならないくらいの損害だ。
普通はそんな簡単に試着できる出来る物ではないのかもしれないが、ここは許されているらしい。
「ヒヤッとした。今も手にちょっと汗掻いてる」
「店員さんに試着できるか聞いたのはこの1着くらいだよ。呉服店なら着脱に付き添いがあるくらいだし。ボクも顔見知りじゃなかったら断られてたかも」
「……気が済んだら、傷を付ける前に脱ぎなよ。その試着室から1歩も出ないようにね」
「心配性だなぁ。このまま練り歩いたりしないって。もう着替えるよ」
「頼むからそうしてくれ」
「……将来あーちゃんが働いてお給料もらったら、買ってね?」
カーテンが閉められ、ようやく肩の力が抜ける。
衣類の扱いについて僕が心配する以上に結城は慎重だろう。
だが64000円が学生に与える威圧感は凄まじい。
0が1つなくても笑って済まない額。その10倍なのだ。
……社会人であっても、1着6万円の服を贈るのはどうだろうか。
中古の振袖くらい買えてしまいそうな値段だ。
なかなか羽振りがよくなければ、おいそれとプレゼントできるものでもない。
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