79.安静と懐古と招かねざる客

 病院から自宅へ帰り着くと、時刻は12時を回っていた。

 まるで半日も外出していたかというくらい長く感じたが、まだ午後になったばかりなのである。


 結城は帰宅していなかった。

 と思うのもまた、語弊がある。

 彼も夕暮家を根城にしているものの、あくまで本家はご近所さんなのだ。もはやどちらが母屋か分からないくらいだとしても。

 今は朝顔宅にいるかもしれない、ということ。


 だからどうしたと言えば、どうということもない。

 少し昼食が寂しいだけ。

 書置きの通り、冷蔵庫に作り置きされた鯖の味噌煮と、朝の残りと思われる卵焼きを昼のあてとした。



 13時頃。

 昼食も食べ終えてベッドで小休止をする。


 処方された薬も食後に飲んでみた。

 別段、これといった変化はない。多少眠気があるくらいで、それは満腹感によるものと違うのかさえ分からないほどの微差。

 激的に悩みが吹っ飛ぶだとか、頭が晴れやかになる、なんてこともなかった。


 女医アビゲイル氏も「軽い薬」と言っていたし、こんなものなのだろう。

 あまりに効果があり過ぎても、それはそれで怖い。



 そして今は、ベッドの上で卒業アルバムを広げている。

 1ページ1ページ、丹念に目を通していく。


 素材のしっかりした厚紙で造られた頑丈なアルバム。日焼けの跡や角の丸みは付いているが、ページを開くとほぼ新品同然。

 高そうな作りに比べて、表紙と裏面のひまわり模様が幼い。

 それもそのはず、これは幼稚舎の物だからだ。


 在りし幼少に想いを馳せているのではない。

 アルバムに載せられた写真のどこかに、三郎の姿を探している。


 悩みを悩みで払拭しているようで不健康なのは承知の上。

 結城の憂いから離れる為に、三郎の憂いと向き合おうとしている。


 幼い頃の彼の姿を探してどうにか……なるはずがない。

 なるはずはないが、どうにも居ても立ってもいられなかった。

 結城の恐怖が幻覚だろうと何だろうと、こっちは現実に実在する脅威なのだから。


 三郎に対して不必要なほどの恐れを抱いている。それは自覚している。

 人物像に怯えを抱いている。


 彼の余りある暴力的な噂話も、その1つとして現場を目視したことはない。彼にちょっかいをかけて実害を被った被害者以外は。

 だから僕たちの世代の大多数にとって、彼は口裂け女や人面犬といった都市伝説と差して変わらないはずだ。


 しかし幼い頃に刷り込まれた恐怖心は消えない。

 一度芽生えた内在的な恐怖の傷は、大人になっても消えないのだ。

 幼少時の同級生には、三郎の話題をしただけで引きつけを起こした子供だっていた。会ったこともない彼に対してである。

 それは一部の感受性が高い子供は特にだった。


 確たる理由もなく恐ろしい存在、それが三郎だった。

 例えるなら、グロテスクな虫に持つ嫌悪感に似た感情。

 だがその刷り込みは周囲の環境で身にしみ込んでいった嫌悪というより、もっと根源的な場所に根ざしている気がする。

 産まれる以前から知っていたことのように。


 鈍いはずの僕ですら、彼が同じ町にいると知って落ち着かない。

 だからこんな、見たところでどうとなるものでもない、探索ごっこをしてお茶を濁しているのだ。


 アルバムには、結局三郎の姿はどこにも映っていなかった。

 集団行動を嫌っていたし、ろくに行事にも参加していなかった。当たり前かもしれない。



 ピンポーン♪


 家内にやたら能天気な呼び鈴の音が鳴り響く。

 誰かが玄関でインターフォンの呼び出しボタンを押したらしい。


 結城かな?

 だが彼は、合鍵があるから呼び鈴を鳴らさない。勝手知ったる我が家然として、無断で出入りするはずだ。

 宅配便でも届いたのだろうか……。


 やたら能天気で猫を被った声が、窓に投げかけられた。


「あーくん、あーそーぼ♪」


 この声……鬼三郎だ!


「ひっ……! 来た!?」


 アルバムで思い出探しなんかしている場合ではなかった。

 なんで僕なんかに、なんてご都合主義な思考に逃げているべきではなかった。

 幸せは歩いてこない。危険は勝手に向こうからやって来る。

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