68.虚空の闇に踊る

 崩壊した先端部に、誰か立っている。

 1歩でも踏み出せば、その先の虚空に体が放り出されてしまう淵に。


 二つ結びの長髪が、風に嬲られて暴れていた。


 全身が紅い……彼は……。


「結城!」


 僕の呼びかけに反応した。

 全身真っ赤な彼が、三日月の穴が開いただけの口で微笑む。

 真っ赤な顔を、さらに紅い涙が頬を伝う。


「知っていること、知らないこと、知るべきこと、知らずに終わること、知らなければよかったこと……どうして? 真実を求めるの? 暴いた真偽がどんなおぞましいかも分からないのに。知らないでいれば、幸せなことだってあるのに」


「…………」


「ボクたちは虚飾の中で生きている。人も、街も、陽の光さえ……みんなが認識した共有幻想に過ぎないのにさ。社会というコミュニティで、現世という名のスキーマを通してお互いの認知のズレを擦りあわせている。みんながみんな、分かりながらも目を背け続ける、本心では分かり合えないという痛みを抱えながらも。他者と接する慢性疼痛を我慢して。そうしないと自分の形を維持できないから。誰も彼もが自分の個人観で、人の個人観を推測して、自分の内側に相手を投影している。思い込みで構築した仮初のふれあい広場」


「…………」


 現実の結城ではない、彼は。

 結城は、こんな不可解な言動で人を悩ませたりしない。


 だが、わずかに香る清潔な、石鹸の匂い。

 彼が結城本人ではない……と断定できない親しみ深い共通性がある。

 ほんの一部、似通っているのだ。


「だからボクたちには舞台劇が必要なんだ。観客参加型カーテンコール不要な夢芝居。素敵だと思わない? 終わらない七色のミュージカルの劇中歌で、ボクたちはずっと踊り続けられるの。肩を抱いて、ステップを踏んで、見つめ合って。シャル・ウィ・ダンス?」


 差し出された右手から視線を背ける。


「踊るのは……好きじゃないんだ」


 真っ赤な彼が、フフッと笑った気がした。


「嫌いでも、きっと好きになるよ。だって、見たくもない現実なんかよりよっぽど素敵なんだもの。音楽のリズムに心が乗れば、自然と体だって動き出す。ボクがレクチャーしてあげるよ。踊り方なんかじゃない、楽しみ方を。ほら、こんな風に……」


「あっ……」


 結城の形をしたそれが、床を軽く蹴り付け、後ろに跳ぶ。

 身体が、真っ暗な虚空へと投げ出される。


 慌てて駆け出し、手を伸ばすが、とても届く距離ではなかった。


「ステップ1、まずはお辞儀から。キャハハハハハハハハ!」


 金切り声に近い高笑いを上げながら、彼は闇の中へと堕ちていく。

 地面に衝突した音は聞こえない。

 深く深く、とてつもない下へと落ちて見えなくなった。


 ……身投げ? 投身自殺?

 発狂した末の奇行だったのだろうか。


 消失した運転席近くまで来て気付く。

 電車は闇の中を走っていた。

 光も何もない、ましてや地下鉄ですらない、底無しの黒が上下左右どこまでもどこまでも続いている。


「これはまた、超現実だな……」


 標識にはBADと書かれていたが、DEADEND(行き止まり)だ。


 後ろからはまだ化物たちが追ってきているだろうか。

 逃げ場はない。

 僕もあの結城に似た何かのように、身を投げ出せば良いのだろうか。


 まるで後追い心中のようで、嫌だ。

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