62.隣りで…

 いつもの結城がいる。


「あーちゃん?」


 瞬き一つ、紅い結城も黒の世界も揺らぎのない夕日もない。

 赤と黒の世界に堕ちる夢に比べれば、日常の中のほんの数十秒に過ぎない変質。

 同質の物かは分からないが、慣れることはなくても、まだマシなのだろう。


「……今日は、ハンバーグなのかい?」


 彼は不思議そうに首を傾げる。


「ハンバーグ? どうして? 今日の夕飯はオクラの胡麻和えだよ。今朝オクラ食べたいって言ってたじゃない。ほら、味見してみる?」


 結城が調理済みのオクラが乗った小皿を持ち、菜箸で摘んで僕の口元に近づける。

 青臭さと、胡麻と醤油と砂糖の混じった香り。

 肉類を彷彿とさせる香ばしさなどない。


 あの香りは、確かに肉の焼ける匂いだったのだが……。


「食べないの?」


「いや、食べるよ」


 向けられた箸の先端のオクラに食らいつく。


 1本を数回で切った一口サイズ、楊梅色(やまももいろ)のタレがかかっている。

 点々とあちこちに付いている黒い粒は胡麻だろうか。


 食感は柔らかい。

 しょっぱさと酸っぱさの混じったコク深いタレの味、鼻に抜ける胡麻の風味、そしてオクラのネバネバ。

 聞いていたオクラの苦味はあまりない。

 タレの味が濃すぎるのだろうが、食べ慣れないから配慮してくれたのかもしれない。


「どう? 美味しい? 調理したことない食材だから、見よう見真似なんだけど」


「美味しいよ、思っていたのとは違うけれど」


「良かった。じゃあ食卓に出しても平気だね」


 結城がワークトップに戻って作業を再開する。


 あの赤黒について、結城に相談すべきだろうか……。

 不在がちで気まぐれな両親はいつ帰ってくるか分からない。

 かといってメンタルクリニックや精神科を受診して異常と診断されるのも怖い。


 もっとも身近で信用できるのが結城だった。

 少し前なら、イの一番に相談していただろう。


 ……だが、あの赤黒が以前、結城の内側から噴出したのも事実だ。

 あれが僕の心理、あるいは彼の心理的な要因から発現する物なら……。


「僕も……何か手伝うよ」


 彼の隣、流し台の前に立つ。

 男子厨房に入らずではないが、最後にいつ台所に立ったのかも忘れてしまった。

 摘み食いならたまに忍び込んでいるが。


 どうも調理は殆ど終わっているようで、出来上がった料理が皿に盛られ、調理器具に素材カスが付いているだけだった。


「本当? 珍しいね、嬉しいな。じゃあ、お料理と食器をテーブルに出してちょうだいな」


「オーケー。料理と食器をテーブルに出すのは凄く得意なんだ」


「ふふ、お手並み拝見」


 結城が流し台の前を僕から奪い、使い終わった器具を洗い始める。


 食器棚から使い馴染みの茶碗、コップ、箸を出してリビングのテーブルまで持っていく。

 食器類を並べながら、やはりあの異常について結城には黙っていようと考え直した。


 心配を、かけたくなかった。

 幻覚が見えるなんて言い出せば、要らぬ心労を与えてしまう。

 親しい彼だからこそ、こんなことを相談したくない。


 なにより、あの赤黒が結城の内側から噴き出したという事実。

 幻覚を説明していく過程で、あれを話さざるを得ないだろう。

 ただでさえ説明の困難なあの現象を1から説明して、一部を伏せて矛盾なく伝えられるほど僕は器用ではない。


 お前の中から赤黒い霧が噴き出してたよ、なんて、とても面と向かって口に出来る訳がない。


 そして、それらのなによりも……あれらを相談することで事実だと確認してしまうのが恐ろしい。

 世の中、不明なら不明のままにしておいた方が良いことだってあるだろう……。

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