56.哀情

 ゴォーン……ゴォーン……。


 まただ……。

 またあの音だ……。


 遠くから響いてくる、錆びた鐘の音。

 そう、多く聞いたはずはないのに、耳の奥、脳の奥、あるいは心の奥にまでこびり付いて取れない。


 不和の残響。

 恐怖と焦燥の彷彿。

 だが同時に、産まれ落ちる以前の母の胎内に懐かしむ心音と同じくらい、遠い遠い遥か昔に耳にした子守歌のように親身だった。


 開いた目の視界に広がる、赤と黒の世界。

 いくら僕が嫌おうが、うんざりしようが、歴然として存在する非存在。


 僕は、血溜まりの地面に座り込んでいた。

 胡坐で、ついた尻もちのベタ座り。


 粘性高い血の海に腰まで浸かっている。

 足を動かそうとしても鈍く、それ以上に全身が酷く重い。


 体中が傷だらけだった。

 無数に付けられた切り傷から、絶えず出血している。

 夢の中の筈なのに、ドクンドクンと欠損した血管から流れ出る感触が妙に現実味を帯びていた。


 特に、喉と左胸と腹部を貫徹する、長大な刃が僕を重症せしめている。

 鈍色の、3メートルもありそうな歪な刃渡り。

 斜めに突き刺さったソレが、動きの自由も束縛していた。


 どう見ても致命傷にも関わらず、痛みも感じつつ、僕は何故か生きている。

 口の中に溢れて溜まった吐血すら、窒息に十分だと言うのに。



 目の前に、あの黒い鬼がいた。

 やはりその体は闇より黒く、北極熊より巨体である。


 鬼が腕を伸ばしてくる。

 丸太より太い剛腕が、ブラックホールのような手の平をこちらに向け。


 死に体でありながら僕は逃げようと、抵抗した。

 しかしもがけば刃がより深く食い込み、流血を酷くする。

 もはや動脈も静脈もどこが損傷しているかなどわかりはしないほど、臓器はズタズタだった。


 喉から上ってきたおびただしい量の血液が、口から溢れ出る。

 吐瀉物のごとく、血溜まりに血が降り落ちて混ざり合う。


 鬼の手の平が、頭頂部に触れた。


 握り潰される……!

 自分の頭部がトマトのように弾ける様を想像し、畏怖する。

 夢なのだろうと思っていても。


 鬼の腕は、僕の頭を握り潰さなかった。

 軽く置かれ、その重量と圧迫を感じただけだった。


 それが前後に小さく動かされ、やがて撫でられているのだと気付くのに時間を要した。


 鬼の呻き声。

 そこに恐ろしさはあっても、敵意はなかった。


 これは……哀憫?


 誰かへの哀れみ。

 ……僕への?


 何故、鬼が僕を同情するのか、分からなかった。

 彼に情けをかけられる理由がない。

 その鬼との間に絆などないはずなのだから。


 だが……何故だろう……。

 無意識に涙が溢れる。

 止まらない。


 それは決して体の傷によるものではなかった。


 胸にぽっかり空いた、空虚な喪失感が、僕はどうしようもなく悲しかったのだ。

 まるで、とても大事な何かを失ってしまった……失っていたと気付いたように……。

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