52.-挿話-ヒビ割れの過去
私、鰐騙 真也(わにがたり しんや)は仮心市立小学校の一教職員である。
40を超え、生徒の扱いにも慣れ、PTAの執拗な猛攻を捌け、いっぱしの教員としての面構えにもなりつつある。
……それでも先輩教師や教委からは若造扱いは免れず、いまだ新任のように愛あるからかいを受けることもあった。
順風満帆、人生の帆は追い風を受けている。
ただ1つ、心の片隅に残るヒビ割れさえ除けば。
そしてそのヒビ割れは、予期せぬ偶然によって浮かび上がった。
その日、私は家庭訪問の予定があり、生徒宅への道のりを歩いていた。
緩やかな勾配の付いた坂を、鍛えの足りない足腰で登る。
真夏日の炎天下も手伝い、思う以上の疲労感に苛まれる。
しばらく運動という運動をしていない。
たまにはジョギングでもすべきか。
「なぁ、おっさん。この辺に飯屋ないか?」
小柄で奇妙な少女が声をかけてきた。
見た目に反してハスキーな声色だった。
小学高学年か中学生くらいだろうか。
目を引いたのは色素の薄い頭髪。
しかしそれ以上に、可愛らしい服装や外見にまるで似つかない瞳の奥の、人生に擦れた色だった。
それもただくたびれた老人のそれでなく、何か溢れたおぞましい生き物のような生命力を思わせるアンバランスさがある。
「……この坂を降りると、コンビニならあるよ。ファミレスはもう少し行った先かな」
子供を諭すような口調で言ったつもりだが、口内が異様に乾いていて上ずった。
少女はお礼の一言も言わず、視線を外して坂を降りていく。
嫌な感じのする子供だ……。
かつて何千人と接した児童の中でもあんな子供は……。
脳裏に1人の顔がちらつく。
意図せず名前が口をついた。
「三郎……か……?」
かつて1年ほど受け持った生徒の1人。
私の唯一の心のヒビ割れ。
頭髪も服装も、記憶の中の彼とまるで一致しないが、顔立ちは瓜二つだ。
その瞬間、家庭訪問のことなど頭からスッポリ抜け落ちた。
私は、今まさに坂の下の曲がり角に消えようとしている彼を追う。
三郎の行く末を、10~20メートルほど離れて尾ける。
彼は、私が教えたコンビニエンスストアに立ち寄り、惣菜や弁当や菓子パンを大量に購入した。
コンビニから出ると少し歩き、市立の半自然公園に入っていく。
珍しく公園に人気がない。
公園のベンチに座り、先ほど買った商品を食べ始める。
尋常でない食欲であった。
山のように買い込んだ食料が、見る間に空き箱へと変わり果てていく。
小柄な体のどこにそんなに入るのかと言うほどに。
しかも空き箱やビニールのゴミを、袋やゴミ箱に仕舞おうともせず地面に捨てていた。
普通の子供に対してであれば、コラーッの怒声に二言三言の説教を加えるところである。
だが彼が件の鬼三郎なら、忠言1つで3ヶ月も入院する懸念がある。
慎重に慎重期して足りないこともない。
まだ半信半疑と言えど……。
やがて食べ終えた三郎は、ベンチにゴロンと横になる。
飲みかけの缶ジュースが蹴っ飛ばされ、地面を転がり中身をぶちまける。
やはり三郎らしい……と言えば、らしい気もする。
……私は何をしているのだろう。
かつての生徒を尾け、遠巻きに眺めて……これではストーカーではないか。
……理由は分かっている。
私は彼が気になっているのだ。
受け持った生徒の中には不良もいた。
だが彼らには行動原理があった、あるいは罪悪感が。
三郎は、それがない生徒だった。
暴力や破壊が感情に起因しない。
ただ暴れるに任せる攻撃性そのものだった。
人間含めた動物の中に、そんな生き物は存在しない。
必ず何かしらの理由や理屈に基づいている。
それが生命という物だからだ。
だから不気味だった。
鬼三郎と呼ばれる以前、彼は底知れない存在ではなかった。
喧嘩沙汰ばかりしていたが、あくまで十把ひとからげの不良と大差なかった。
年上にも喧嘩をふっかけては返り討ちにされるように、血の気の多いだけの子供という程度。
月に数回は登校もしていた。
それが、ある一夏を境に学校へも来なくなり、今の怪物と化した。
地元で散々暴れ狂った挙句、ふいっと町から消えてしまった。
ただただ、破壊と恐怖の痕跡を残して。
無論、そんな生徒は後にも先にも1人きり。
記憶は、悪いものや中途半端に切れたものほど残りやすい。
彼の存在は私の教師生活の中で、やがて風化していったが、壁のいつまでも落ちない染みとして消えることはなかったのだ。
……やめよう。
今更、こんなことをして何になる。
彼を更生でもさせるつもりか?
それは誰への贖罪だ? あるいはケジメか?
自分のヒビ割れを悪化させるだけだ。
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