47.さーや

 少女が頬の筋肉を緩める。

 ほんの少しぎこちないえくぼ。


 小首を傾げ、両手を首の前で擦り合わせる。

 そして舌ったらずさの残る声でこう言った。


「はぅぅ、ごめんなさ~い。ちょぉっと急いでてぇ~」


 空気が壊れる、猫なで声。

 甘ったるくわざとらしい口調が、僕を現実へと引き戻した。


 隣にいる結城がコツッと靴先を地面に当てて鳴らす。

 柄を捻り、傘を半回転させた。

 機嫌が悪そうだ。


「あぁ……そう、ですか。こっちも前をよく確認していなくて……えぇと……すみません。怪我、はありませんか?」


「うん、平気だよぉ。ごめんねぇ、さーやも人を探してて慌ててたからぁ」


 さーや……あ、名前。一人称か。

 子供のじみた喋り方をする……。


 ……自分より小さい少女に、何故こんなにも恐縮しているのだろう。

 別に人見知りな訳でもないはず。


 ただ、この子に対して話しかけようとすると、喉に何かつっかえたように、タメ口は丁寧語へとねじ曲げられる。

 自然に接しられず、体の歯車が一瞬、錆びに噛み止められる。

 それはまるで、久方振りに再会した年上の知己だと後から気付くような。


「じーっ」


 と、さーやと名乗る少女が口頭する。

 見つめていることの漫画擬音なのだろう。

 

 そのままでも身長差があるにも関わらず、下から覗き込むような仕草。


 よく見ると、彼女の瞳は紅かった。

 それもルビーのような艶やかな赤ではなく、空気に触れて時間が経った血のような濁った紅。

 黒目の奥の、さらに深いところで、厭らしく笑ったように思えた。


「な……なん……ですか?」


 少女は1つ、ぴょんと飛び跳ねる。


「もしかしてぇ、夕暮 秋貴くんじゃないですかぁー?」


「え………………は……はぁ、まぁ……そうですけど……」


 数秒言い淀んで答える。

 何故素直に返事が出来なかったのだろう。


「わーい、やったぁ。さーやわぁ、あーくんを探していたのですよぉ」


 あーくん……僕か。秋貴の頭文字。

 結城も僕をあーちゃんと呼ぶし。


「え……探してた? どこかで会ったことありましたっけ?」


 名前と顔を知っているってことは知り合い、なのかもしれない。

 近所の知人にこんな子はいない。

 遠い親戚にも。


 学校の同じクラス、ではありえない。

 かといって、別のクラスか別の学年か……だとしても、こんな特徴的な頭髪の生徒がいれば噂になっていそうなものだが。


「ひどーい、覚えてないのぉ?」


 少女は片手を口元に、もう片手を目元に添える。

 誰でも一目でわかりそうな、わざとらしい泣き真似。


「えーと……ごめんなさい。同じ学校?」


 少女が両手を降ろし、不満げに口を突き出す。


「ぶっぶー、はーずれぇ。もぉー、さーやのこと覚えてないなんて、プンプンですよぉ」


 両手を頭の上で、人差し指だけ空に向かって突き立てるジェスチャー。

 さながら鬼の角、ひいては怒っているという意思表示らしかった。


 既視感の正体が判明する。

 以前テレビ番組で見かけた、過剰な猫被り演技を好む女性の仕草そのままなのだ。


 苦手な手合いだ。

 ごく一般的な異性との付き合いも得意な訳ではないから、尚更。


「でーも、良いよぉ。許しちゃう。さーや、あーくんに会えたから、今、とぉってもご機嫌なのぉ」


「はぁ……さいですか」

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