41.安心

「あーちゃん?」


 肩を叩かれ、ハッと意識が戻る。


 そこは自宅から一歩外へ出た場所。

 落ち着いた住宅街とセミの鳴き声と、夏の暑さが支配するいつもの日常だった。


 ……夢が覚めたのか?


 左隣から結城が顔を覗き込んでくる。


「ゆ……結城?」


「なにやってるの、こんなところでボーっと突っ立って? 顔色も悪いし、汗びっしょりだよ?」


 言われて頬に手を添えると、体温が低かった。

 血の気が引いているような感覚もあるし、彼の言う通り顔色も悪いのだろう。

 自分では確認できないが。


 そして全身に、ジットリと嫌な汗を掻いていた。

 服が重たくなるくらい水分を吸っている。

 脱水症状になりそうなほどの量だ。


 この気温の中、汗は驚くほどに冷たい。


「あのさ、僕、どれくらいここに立ってた?」


 彼は不思議そうにしつつも、こめかみに人差し指を当てて数瞬考え、答える。


「さぁ……最初から見てた訳じゃないし。遅いから様子を見に来たんだけど、玄関開けたらあーちゃんが道路で放心してて。何か気になる物でも見てたのかなって思った。でも5分くらいそのまま動かなくて、おかしいなって。それで声かけたの」


 最低でも5分。

 この真夏の日差しが照り付ける太陽の下を、立ったまま意識を失って5分……あるいはそれよりもっと……。


 病院に行くべきだろうか……。


「僕がこんな風にボーっとしてたのって、今日だけだった? 夏休みに入ってからとか」


 夢遊病よろしく、自覚のない時間に記憶が飛んだりしていないだろうか。

 自分で知る限り、ここ1ヵ月はなかったはず。


「……わかんない。ボクも分単位であーちゃんを監視してる訳じゃないもん。少なくともボクが見てる間はなかったと思うけど。それより屋内に入ったら? 熱中症になっちゃうよ」


「あぁ……そうだね」


 結城に手を引かれて玄関に戻る。

 足元が少しおぼつかない。

 多少、脱水と熱で体調が崩れたかも。


 玄関の段差に座って、土間で靴を脱ぐ。

 すぐに立つ気力が沸かず、腰を下ろしたまま休憩する。


「心配ならお医者さん行こうか?」


「……いや、大丈夫だよ。夏バテしてるのか……ちょっと気疲れしてるとか。たぶん、大したことはないよ」


 結城が困惑げに前頭を掻く。

 するといきなり僕の頭に抱き着いてきた。


 膝を立てた態勢で、ちょうど顔が彼の胸に押し当てられる。

 もちろんそこは、僅かな柔らかさがあっても平坦極まる薄い胸板だが。


「な……何するんだよ」


「不安ならボクの胸に甘えていいんだよ。クスクス……」


 冗談めかした彼の励ましと慰め。

 唐突すぎて呆れるばかりだ。

 距離感が近くなければ、嫌悪すら覚えそうないきなりの抱擁。


「恥ずかしいなぁ」


 しかし慣れ親しんだ彼の体温を感じ、清潔な石鹸と仄かな汗の匂いに包まれると、不安がほんの少し和らぐ。


「でも落ち着くでしょ?」


 とはいえ、自分の頭を預けっぱなしにして甘えていられるほど、僕はあけすけでいられない。

 14歳だ。思春期なのである。

 玄関扉も開けっ放しで丸見えだし、誰かが家の前を横切れば赤っ恥だ。


「もう大丈夫だよ」


 結城をぐいっと押しやる。

 抵抗なく引き剥がせる。


「あぁん、恥ずかしがり屋さんだなぁ」


 彼はわざとらしく舌打ちをする。


「復調したって。お腹も空いたからご飯にしようよ」


「はいはい」


 ……心が安定したのは、彼のおかげだけではない。

 あの世界は、居た時だけが自分でも制御できない情緒不安に襲われる。

 現界に戻れば急速に精神の平衡が取れる。


 その落差が、よりあの世界への再発を恐れさせた。

 願わくば、これ以上見ずに済めば良いのだが……。

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