40.紅い獣と黒い鬼

 ――――グルるルゥぅゥ……。

 低く気の触れた肉食獣のような、二重三重に響くサラウンドの唸り声。


 獣臭さと血臭の入り混じる息が顔に吹きかかる。

 鼻先三寸に、巨大な口の入口があった。

 赤くヌラヌラした肉壁の口内、獲物の肉と骨を砕くことしか使い道がなさそうな凶悪な牙。


 あの、紅く巨大な獣だった。

 前足が3本、後ろ足が5本。

 目が5つ、デタラメな場所に付いているグロテスクな怪物。


 ――――グルるルるルゥゥゥ……。


 喰われる。

 直観的にそう意識した。


 奴は腹を空かしているのだ。

 その飢えは餓鬼道の亡者の比ではない。


 牙が僕の喉元へ迫る。



 ガォ……ン!!


 硬くてデカい物を硬くてデカい物で殴りつけたような音が響く。

 紅い獣の横っ面を、黒い何かが直撃した。


 一瞬、視界が黒い壁に埋まる。

 そう思わせるほど、そいつもまた巨大だった。


 紅い獣が10メートル近く吹っ飛ばされる。

 あの巨体が軽々弾け飛ぶくらい、凄まじい衝撃。


 視界が晴れる。

 離れた位置に紅い獣、そしてその前に全身が黒い巨体の鬼が立っていた。

 獣を殴り飛ばしたのが彼?だったようだ。


 それを鬼、と形容したのは頭部に2本の角が生えていたからである。

 しかしそれが本当に鬼であるのか、僕には解し得なかった。


 なにしろ全身があまりに濃い黒色で、それは空の黒さを後ろにしても、尚黒いと分かるほどに。

 体の境界すら殆ど判別できないほどに。


 やや前傾姿勢で、太い爪の生えた足で二足立ち。

 腕も5本の指それぞれに猛獣の牙のような爪がある。


 体高は4メートルを超え、紅い獣が小さく見える程だ。

 全身筋骨隆々、肥大した筋肉が微細な神経運動で生き物のように蠢いている。

 だがおよそ人間にも獣の体付きにも似ておらず、醜いほどに異質な筋肉の隆起が起きている。


 そして全身真っ黒の中、唯一、瞳だけが赤々と憤怒に燃えている。


 ――――ガぁあァぁああアあ!!!

 大口を開けた咆哮。

 空気が振動し地面の血溜まりが波打つ。


 ――――グるるルルルぅぅゥ!!!

 紅い獣も激しい唸り声を上げる。

 四足が躍動する。

 体のバネを使って間合いに飛び込み、その裂けんばかりの口で鬼に喰らつこうとする。


 ガギン!


 鬼の首筋を狙っていた獣の噛みつきが空振る。


 鬼はその巨体に似合わず、素早い体裁きで屈みつつ半身を後ろに引いていた。

 腰の沈んだ体勢から、振りかぶった左の拳を下から放つ。

 アッパーカットとは言えないような、ただただ力任せの振り上げ。


 グワァンン……!!


 拳が獣の喉笛を捉えた。

 手首は返さず、鬼は勢いそのまま獣を地面に叩きつける。


 ドズゥゥゥゥ……ン!!


 ゾウでも昏倒したかのような、地鳴りじみた地との接触音。

 倒れ伏した獣へ、再度鬼が拳を振り上げ追撃を放とうとする。


 だが獣に被害はない。

 血溜まりの地面の上で、体を捻じって起き上がり、向かってくる力を自身の表面であらぬ方向へ強引に受け流す。


 予期せぬ捌きに鬼が上半身をよろめかせる。

 崩れた体勢から片足を出して踏みとどまると同時に、右腕を横に薙ぐ。

 丸太より太い剛腕が空振りし、突風が吹き荒れる。


 紅い獣が地を蹴り飛び掛かる。

 体重をそのまま乗せた、近距離の強烈なタックル。

 まるで大型車両か戦車のように重く速い。


 ドォ……ォォン!!

 腹の底に響く重厚音。


 獣の体当たりで、鬼が後方へバランスを崩しながらたたらを踏む。

 一瞬、脚部の筋肉が一回り膨れ上がるように見えた。


 ドスン!!

 後ろで片足を突き出し、地面にめり込ませるほどに接地させる。

 腰を落とし、上体が安定する。


 獣の前進が押しとどめられ膠着する。

 まるで重機同士の押し合いだった。


 鬼の上腕二頭と広背筋が、一瞬爆発的に肥大する。

 組んだ両手の鉄槌を右から左へ振り抜き、獣の顎付近を打ち砕く。


 ズドンッ!!

 鈍い音が響いた。

 獣の体が鬼から離れ、打撃の衝突力で地面を低くバウンドしながら転がる。


 脳震盪を起こしたのか、ふらつき立ち上がろうとする獣。

 機を逃さずドスドス走りながら距離を詰める鬼。

 だがそれは罠だった。

 ケケケと厭らしい嘲笑が聞こえた気がした。


 痛手などないかと言わんばかりに、獣は瞬く間に体制を立て直す。

 鬼が剛腕の拳を振り下ろす先へ向けて口を開ける。

 ヒットの瞬間、口が閉じられ牙が拳へ突き刺さり拿捕された。


 ――――グがアァあぁあアアあ!!!


 腕を振り回し、空いた片手の拳を叩き込み、獣の噛みつきから逃れようとする。

 獣は痛打に耐えながら喰らいついた拳を離さない。


 鬼が地団駄を踏み鳴らす。

 獣は巨体が振り回され地面に叩きつけられようとする度に、体を捻り直撃を避ける。


 どちらも技もへったくれもない、ただただ大きな肉同士のぶつかり合う野良試合。

 しかし常軌を逸した力技の組み合いの前に、ボディメカニクスの技術など不要だろう。


 その異常なまでの運動エネルギーだけで、並みの生物なら十分致死量だからだ。

 ほんの少しでも巻き込まれさえすれば、人間の体など骨が粉々になってしまうに違いない。


 暴れ狂う2体の化け物の衝撃で、大地が何度も揺れる。

 血溜まりの液体が飛沫(しぶ)く。


 ――――グるゥるルルルぅうぅゥ!!!

 ――――ガぁあァぁぁアあアあ!!!


 地獄のような光景の中、巨大な2体の怪物の乱闘。

 凄まじすぎて、まるで怪獣映画を観ているようだった。


 その非現実さに気をやってしまう。

 僕は気絶した。

 あるいはここが夢ならば、気絶の中の気絶だったかもしれない。

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