32.帰り路

 恋愛は理屈で成り立たない。

 筋道を立てて形にすることもできるかもしれない。

 しかし根っこの部分で、人の惚れた腫れたは心に由来する。


 結城が衝動で僕と関係を築こうとした一方で、僕の場合は理屈が先立ってしまった。

 だから、自分で自分の心に嘘を付いているのかどうかが判然としないのだ。


 そして実際には、人は感情と理性の2つを多角的に自認することで答えを出す。


「……ん、そっか。あーちゃんは、そう考えるんだね」


「だからもう一度今までの関係を続けて、その中で答えを出したい。……駄目かな?」


 結城がすっと体を後ろへ離れさせる。

 自分の手で残り涙の付いた目元をゴシゴシと拭う。


 そして緩い正拳を僕の胸へ当てる。


「仕方ないなぁ、今回はあーちゃんの勝ちでいいよ」


 結城がニカリと笑う。

 いつもの彼に戻っていた。


 全身から溜息と共に緊張が抜けていく。


 危機は去ったのだ。

 当面は。


 そこにはついさっきまで、刹那の命をやり取りしていた殺伐とした空気は霧散していた。

 まるで嘘のように。

 いつもと同じ、静かな夏夜の住宅街へと戻っていた。


 あれだけの騒ぎをしておいて、人がいるはずの住宅から誰かが出てきたり、道を通りがかる通行人がいなかったことなど。

 家々にも明かりはついているにも関わらずだ。

 様々な不合理があったはずなのに、それらを勘ぐって追及する気になれなかった。


 いつの間にか手から消えていた鉄パイプさえ。


 今はただただ、結城と和解できた安堵に満たされていた。

 居心地の良い、いつもの関係。

 殺し合い同然のあの時間が、遠い出来事のように思える。


 何故か、何故だか、彼の凶行に対して警察へ通報するなどという考えすら、浮かばなかった。

 共に立っていても、危険など感じない。

 不思議なくらいに。


「じゃ、帰ろうか。美味しい晩御飯作ってあげるからね」


 結城が地面に転がっていた自分の鞄を拾い上げる。

 猫のぬいぐるみもポケットへ素早く仕舞っていた。


「あ……あぁ、そうだね。帰ろうか。えーと、鞄……鞄……」


 僕の鞄は、何故か見つからなかった。

 遠くへ放り投げた記憶もないのに、どこにもない。

 入り組んだ場所に入ってしまったのだろうか。


「どうしたの?」


「いや、鞄が見つからなくてさ……」


「いいじゃん、鞄くらい。どうせ大したもの入ってないんでしょ」


「それは……そうだけど」


 確かに置き勉で教科書は学校にある。

 中身はせいぜい文房具と使いかけのノートくらい。


「ならいいじゃない。また探せる時に探そう。ボク、お腹減ってきちゃったからもう帰りたい」


「……そうだね」


「ん……」


 結城が鞄を持っていない、空いた手を差し出してくる。


「なに、その手?」


「手、繋いで。それくらいの償いは安いもんでしょ。乙女をあんなに泣かせて、恥かかせたんだからさ」


 釈然としないままでも、逆らう気力もない。

 手を握る。

 そのまま隣立って歩き出す。


 彼の指が絡んでくる。

 指が指を這って、こそばゆい。


「そういえば、割れた親指痛くない?」


 結城が自分の指を掲げて見せる。

 既に出血は止まっていたが、赤く染まって痛そうだ。


「あーちゃんやっさしーい。でも大丈夫、こんなの平気。ミシンで指縫っちゃった時に比べたらぜーんぜん」


「……痛そうな話はやめてくれ」


 そんないつもながらの他愛ない話をしながら、帰路につく。

 陽が沈みすっかり夜になった街の中を。


 静かな帰り道に、夏虫が鳴いている。

 空には雲一つなく、紅い月が上っていた。


 幾重の想いが交わり合った1日だけの恋人初日が、こうして終わった。

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