31.涙

 打ち抜いた手ごたえがあった。


 包丁が結城の手から叩き落される。

 浅い角度でへの字に曲がり、路面に当たり低くバウンドした。


 急いでそれをつま先で蹴って飛ばす。

 右回転しながら地面を横滑りし、ゴミ捨て場のゴミ袋の下へと消えていった。


 ほっと一息つく。

 拾われて反撃でもされたら、せっかくの千載一遇の好機が台無しになる。


 だがその心配も懸念に過ぎなかった。

 件(くだん)の結城は、放心したように蹴り飛ばされた包丁の行く末を見送っていただけだからだ。

 取りに走ろうともしない。


 鉄パイプで打ち抜いた時に巻き添えをくったらしく、左手の親指の爪が割れて出血している。

 しかし痛みに気を遣う様子もない。

 それがかえって不気味だ。


「ゆ……結城」


 僕は背を向けている彼へ、そっと声をかける。

 恐る恐るその肩に手を置く。


「あーちゃん……」


 結城が振り向く。


 ギョッとした。

 殺意を向けられたからではない。


 彼が泣いていたからだった。

 目から涙をポロポロ零している。


「そんなにまで……ボクと恋人になるのが嫌なの?」


 大粒の涙が、後から後から溢れてくる。

 頬から顎へ伝い落ちる。


 辛そうに閉じかけた半目が、横に引き絞られた唇が。

 僕の記憶の中でも、今だかつてないほど悲哀に曇っていた。


「あ……えぇと……」


 言葉が出ない。

 言いたいことは分かっているはずなのに、言葉として口をついて出てこない。


 僕は彼に何と言いたいのだろう。


「う……うぇぇーん……! やだよぉ、ボク……あーちゃんを諦めるなんて、できないよぉー……!」


 堰を切ったように破裂する結城の感情。

 顔をくしゃくしゃにして、外聞もなく涙を流し続ける。


 いつも優しく、余裕があり、泣く時だってそれは何かの誰かの為だった。

 そんな彼が、自己の為だけに傷心を暴発させている。


「ゆ……結城……その……」


 何かを言おうとして、そのどれもが間違っている気がしてしまう。

 散々、体裁がどうの世間がどうのとのたまっておいて、彼の涙の前で自論は吹き飛んでしまった。


 どの言葉を選んだとしても、外面を取り繕っただけの薄っぺらい詭弁におちぶれてしまう。

 大人の意見などと嘘ぶいただけの、浅知恵に。


 純粋なる彼の愛の前に、虚飾は傲慢なだけのハリボデも同然だ。


「馬鹿ッ! バカバカ! あーちゃんのばかっ!」


「いたっ!」


 結城が僕の胸に飛び込んでくる。

 両拳の底で殴りかかってくる。

 ドスドスドス。


 だがあえて避けない。

 凶器がないことよりも、彼に殺意がなかったから。

 なにより、いつの間にか世界を侵食していたあの赤黒が消えていたからだ。


「なんでよ! なんでボクじゃダメなのよ! こんなにあーちゃんを想ってるのに! こんなにあーちゃんのことが好きなのに! どうしてよ! ボクの何がダメだってのよ!」


 殴られるに任せた。

 そんな力のこもっていない拳で殴られてもちっとも痛くない。

 彼の言葉の方が胸に突き刺さる。


「だって、それは……僕にも結城にも人生があるから」


「分かってたからオーケーしたんじゃなかったの! 社会がなによ! 人の目がなによ! 2人一緒だったら、そんなもん怖くもなんともないじゃない! 大人ぶってバカみたいだよ! ボクはあーちゃんの為だったら世界中を敵に回したって平気だもん!」


 どう言い繕っても、結城の感情論のエネルギーには負ける。

 正しいも間違ってるもない。

 自分がどう想うか、しかないのだ。


「……ごめん、僕が間違ってたよ。本当は怖かったんだ」


「グスッ……あーちゃん?」


 そうだ恐怖だ。

 およそ僕の根底で、結城を拒絶した最大の理由はそれだった。

 僕は社会通念に怯えていた。

 その恐怖が、気持ちを正確に伝えられず濁らせていた。


「本音でぶつかられて、目が覚めたよ。結城は僕のことこんなに想ってくれてるんだ。きっと、凄く悩んだよね。その想いを考えてなかった」


「…………」


「今はまだ、時間が欲しいんだ。考える時間が。僕だって結城が大切だから。それが家族愛なのか恋心なのかまだ分からない。だけど、衝動に任せて短絡的に変えてしまえるほど、僕たちの間柄は薄くないはずだ。感情的な答えを出すのも、理性で考えた後だって遅くないよ」

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