29.分岐

――――汝(なんじ)健やかなるときも、病めるときも


「自分の感情もボクの想いも、全て道徳観で踏みつぶしてる!」


「人の数だけ想いの形がある。そこに正しいも悪いもない。だから食い違う」


――――喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも


「ボクたち昔からずっと一緒だったじゃない!」


「いつまでも都合の良い現実逃避に浸ってんじゃねぇ!」


――――これを愛し、敬い、慰め合い、共に助け合い


「エゴだって思われたって、それがボクがボクへの正直な気持ちなんだから!」


「死ぬまでおままごとで何もかも騙し通すつもりか!」


――――その命なき時も真心を尽くすことを誓いますか?


「だぁい好きだよ、あーちゃん♪ ずっとずっと一緒にいようね?」

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「はっ……!」


 寝覚める。

 我を取り戻すと、そこはいつもの住宅街だった。


 赤黒い錆のような何かと霧はそのままだが、黒い空と紅い地平線は消えていた。


「……え?」


 目の前で結城が放心していた。

 包丁を振り切った姿勢のまま。


 彼も何が起きたのか分からぬ様子で、僕の顔、そして自分の手元にある包丁に目を落とした。


 なんだ?

 何が起こった?

 僕は結城に斬られたのではなかったのか?


 胸元に手をやる。

 シャツだけが切り裂かれていた。

 切り傷はない。

 出血もしていない。


 踏み込んだ後の結城と、後ろに仰け反ろうとしている僕がいるだけだった。


 斬られていなかった?

 だったら今のはなんだったんだ。

 幻覚? 夢?

 僕は死んでいない。


「……あれ? おかしいナ」


 結城が上体を起こす。

 瞳に困惑があったが、濁りはそのままだった。


 判断が交錯する。

 結城に僕を殺す気はない?

 だが包丁で斬りつけられた。

 いや、本当に斬りつけられたのか?

 今の今まで視たすべてが、幻だったのではないか?


 違う、彼は本気だ。

 向けられた殺意は偽物なんかじゃない。

 それだけは分かる。


 なら説得か?

 出来るのか?

 正気を失った彼に言葉が届くのか?


「結城、話を……」


「…………」


 無言だった。

 結城が半歩踏み込み、腰のバネをしならせる。

 返す刃で、包丁の凶刃が下から抉り込むように迫る。


 ダメだ、話が通じない。

 どうする? 防がなければ……

 と考える間もなく、手に冷たく硬い感触があった。

 何かを握りしめている。


 ……鉄パイプ?


 ギィィ……イン!


「ぐぅ……う……!」


 咄嗟に体の前に鉄パイプを、両手で両端を持つ。

 押し出すようにしたそれに、包丁の強烈な圧力を受ける。


 まるでハンマーでぶん殴られたような衝撃だった。

 体が後方1メートルも浮いて飛ぶ。


 尻もちをつく。

 慌てて立ち上がる。


 結城の常軌を逸した速度に、緩慢すぎる起き上がりの間に、斬りつけられるのではないかという懸念が襲う。

 しかし彼は、包丁を振った位置から動いていなかった。


「!? なによ、アンタ! 誰なのよ! クソっ! あっちへ行け!」


 ブンブン!


 彼に何が見えているのだろう。

 虚空に向かって包丁を振り回している。


 錯乱?

 幻覚でも見えているのか?


 いつの間にか手に持っていた鉄パイプ。

 斬撃を受けて、ひん曲がっている。


 これもなんなんだ?

 いつ、こんな物を僕は手にしていた?


 分からない。

 分からないことが多すぎる。

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