27.愛してるから奪いたい

「ふふふ……」


 俯いて前髪に隠れた顔の上半分。

 口元が見難く歪んでいた。


「ゆ……結城?」


「そっか……そうなんだ。ボク、捨てられちゃったんだ。あんなにがんばったのに……。あんなに勇気出して告白したのに……」


 矯笑と嗚咽の入り混じった形容し難い震え声。

 悲しみ、怒り、憎しみ、愛情。

 どれもを含み、同時にどれとも違う感情だった。


 混濁しているのだろうか。

 思考が飛躍している。


「違う。捨てたとかそんなんじゃない。しばらく時間を置いて冷静になって考え直したいだけなんだ。だから……」


 結城が爆発する。


――――あははははははははははは!!!!


 空を仰ぎ、大口を開けて高笑った。

 恐ろしささえ感じる、狂気に満ちた声だった。

 産まれてからの14年間、1度として目にしなかった彼の深層の狂乱。


 そしてその目は、この世のあらゆる感情を内包しつつ、死人の目だった。


「あはははははは!!! あははは!! あははははははははははは!!!」


「ゆ……結城」


 刹那、世界が変質を始めた。


 あの赤黒い錆のような何かが、結城の心臓を中心に一瞬にして、視界に入る全てに広がり汚染する。

 道も、建物も、空も、電柱も草木も自動販売機も、光さえ。

 可視光の一切を無視し、ただただその色へと染め上げた。


 僕はようやく悟った。

 あの赤と黒は、彼の内面から噴出したマイナスの感情だったのだ。


 彼の愛と憎しみが、現実を侵食している。


「あはははは! そんなの……許せる訳ないでしょ」


「うっ……」


 暗く淀んだ瞳。

 ドロドロした穢れた闇が、重く漂い流れている。


 血の臭いが周囲に漂っている。

 やたらと重い粒子の、赤黒の霧。

 

 誰かから流れ出た血液ではない。

 もしかすると、元々世の中は血塗れだったのではないか。


「……ここまで膨らんだ恋慕。今更抑えられる訳ないじゃない!」


 結城が自分の太ももに手を這わせ、スカートの側部を捲り上げる。

 一瞬、露わになる白い肌。

 それと、レースの付いたガーターベルトのような紐と銀色。


 彼は引き抜いたそれを一振りする。

 一筋の銀閃と風切り音。

 霧が1ミリにも満たない細さで切り裂かれた。


「……こうなったら、殺してでもあーちゃんの愛を奪い取るわ。仕方ないわよね」


 彼の片手に握られた刃渡り18センチ。

 自宅でよく使っている牛刀包丁。


「な……なんだよ……それ……」


 突然取り出された刃物に、全身にピリッと電気が走った。

 恐怖に足がすくむ。

 息が止まる。


「…………」


「じ……冗談止めろって。話し合う余地があるのに、なんでソレなんだよ。冗談……なんだろ?」


 彼が一歩こちらに歩を進める。


 包丁の銀が、やけに鈍く光っている。

 18センチ程度のはずのそれが、実物より遥かに長大に感じる。

 目が釘付けになる。

 粘っこいツバが喉に落ちる。

 

「ボクが、あーちゃんのことで冗談だったことなんて……一度もないよ」


 結城が本気だと、分かっていた。

 認めたくないくらいに。

 彼が僕の心を見透かせるように、僕だって彼が本気かどうかくらい分かる。


 人生の大半を共に暮らしてきたのだから。


 後ろに下がろうとして、足が引かない。

 恐怖で硬直していた。


「じ……自分が何しようとしてるのか、わかってるのか?」


「……さぁ、どうなんだろう。ボクは分かってるつもりだよ。間違ってる? ねぇ、教えてよ、あーちゃん」


 結城が足を屈ませたところで、僕は既に逃げ場を失っていた。


 瞬間、彼が目にも止まらない速度で突進してきた。

 まるで獣だった。

 どうしようもなかった。

 人間の業ではなかった。


 1歩目の踏み込みで、彼我距離4メートルと半分が消滅した。

 2歩目で腰のバネを使い、腕を振り、おそらくは完璧なタイミングと距離の斬撃だった。


 結城の、顔が、すぐ近くに。

 彼が、右手を、振ったような気がした。

 目が、追えない。


 咄嗟に、持っていた鞄を前に、突き出そうとして、間に合わない。


 冷たい風が、胸の辺りを、通り過ぎていった。


「……あーちゃん、向こうで待ってて」


 結城の目から一筋の涙が頬を伝った。

 消えた生の中で、それがとても美しく思えた。


 胸に熱が生まれた。

 熱い、痛い。


 そう認識するのが先だったのか後だったのか、深く切り裂かれた胸から液体が噴き出した。

 肉も肋骨も、まるで役に立たなかった。


 鋭い一撃が、心臓に届いていたからだ。

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