26.リセット

 結城が人差し指で自分の頬を掻く。


「…………」


「…………」


 沈黙。

 彼は無表情だった。

 その顔から感情を推し量れない。


 ただ、強い不安を掻き立てられるほどに、瞳が濁っていた。


 結城が数秒、目を閉じてから開く。

 そして小首を傾げて二コリと笑う。


「ちょっと、よく分からないなぁ。とりあえず帰ってから話を聞くよ。お腹空いたでしょ」


「今じゃなければダメなんだ。ズルズル先延ばしにすると、お互いが膿んでいく気がする」


 彼がわざとらしく踵を返して背を向ける。


「さぁ、今日は腕によりをかけて美味しいご飯作っちゃうぞ。ついて来ないんなら、あーちゃんの分まで食べちゃうんだからね」


 話を逸らそうとしている?

 彼のそんな態度は初めて見た。

 いつもならうやむやを嫌うはずなのに。


 だが引く訳にはいかない。


「結城、もう一度よく考え直そう」


「……それって、どういう意味?」


 陽が、沈んでいく。

 闇が空を上から塗りつぶしていく。

 青から白へ、黒へ。


 夕と夜の境目の刹那。

 世界が血色に染まる。


「僕たちの間にある愛情を、リセットしよう」


 結城が小さく唇を動かす。

 僅かに震えている。


「……それって、別れ話ってこと?」


「……そうだ」


 彼が自分の胸をぎゅうと強く掴む。

 呼吸が少し荒くなる。


「なんで、そんなこと言い出すのよ……ボクたち、こんなにもお似合いのカップルじゃない」


「……ごめん」


「何でよ! 今日1日のどこに落ち度があったって言うの! ボク、完璧に恋人してたじゃない!」


 語調に僕への責めがあった。

 かつて感じたことのない、彼の愛憎。


「やっぱりこの関係は正常じゃない。今のまま流れに身を任せても、いつか破綻する。僕らには考える時間が必要なんだ」


 凍り付いた結城の顔から血の気が失せている。


 俯く。

 彼の無表情から、ピリピリと肌が焼け付く熱が伝わってくる。


 ギリッ……。

 歯ぎしりの音さえ聞こえた気がした。


 彼が顔を上げる。

 そこには能面のような貼り付けただけの笑顔があった。

 余裕ぶった作られた表情だが、ゾッとするほど冷たい。


「はっはーん。さてはあーちゃん、自信がなくなったんだね」


「自信……?」


「ボクたちの愛がマイノリティだから、世間の風当りを懸念してるんでしょう。わかるよ、今はまだ子供なボクたちは守られた存在だもの。いずれ、自分の責任を自分で負わなくちゃならなくなった時、社会からの逆風が怖いんだよね」


「……それもあるけれど」


 彼は両手を軽く広げる。

 一見するとそれは、慈愛に溢れた聖母のように。


「確かに全てを認めてもらえないかもしれない。でも大丈夫、同性だからって幸せになれないとは限らないんだから。上手く世の中と折り合いをつけて生きてる人たちだって、いっぱいいるんだよ」


 そうかもしれない。

 しかしそれは詭弁だ。

 そうした人達は結果的に上手くいっただけで、その後ろに無数の悲劇がある。


「いや、僕はやっぱりそう楽観できないよ。無理だ。結城が男だってこともそうだけど、それ以上に親友だ」


「……あーちゃん」


「愛情と友情を混同してしまっているかもしれない。僕たちの関係が限りなく恋愛に近いものだとしても、それが友情の延長線上を勘違いしていないとは言い切れないんだ。そんな、半端な気持ちのままで茨の道を裸足で歩けない」


「そんな……」


 結城から感情が抜け落ちる。


 言いたくなかった、こんなこと。

 親友が傷つく顔なんて、見たくなかった。


 それでもハッキリ言わなければならなかった。

 虚飾の態度や言葉を繋げても、きっとすぐにバレてしまうから。


「…………」


「…………」


 だが、時間をかければ正しい答えはきっと出るはずだ。

 自分の本心からの想いが。

 それが形となった時、改めて関係を築けば良い。


 空気にほんの少し冷たさが混じる。


 夕が、終わる。


「ふ……ふふふふ……」

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