23.異常情景

「はぁ~、美味しいね」


「口の周りにコロモ付いてるよ」


 結城がティッシュを取り出して口元を拭う。


「ふふ、そういうあーちゃんだって」


「本当だ」


 唇が油でベタベタする。


「あ、手で触っちゃダメ。これ使って」


 手の甲で取り払おうとして、結城がティッシュを2.3枚差し出してきた。


「ありがと」


 ティッシュで油を拭き取る。

 白い難水溶性紙に付いた茶色の粉の塊。

 知らないうちに、ずいぶんとたくさん付着していた。


 それだけ綺麗に揚げられたということだろう。

 作り置きされてしっとりしたスーパーの総菜では、この味や歯ごたえは出せない。

 幾らでも食べられそうだ。


 ふと、持っているコロッケの包み紙の縁に、何か紅い物が付いていることに気づいた。


 血か?

 それにしては薄い紅だった。ピンク色に近い。

 自分の唇を触ってみても、どこも切れても乾燥割れもしていない。


 よくよく目をこらすと、どうも口紅らしかった。

 いやおそらく色付きリップだ。

 結城の口から移ったのだろう。


 隣にいる彼の横顔を見る。

 お腹が膨れたのか、手に持ったメンチカツをちびりちびりと齧っていた。

 道行く人々をぼんやり眺めている。


 唇を注視する。

 やはり包み紙の紅と同じ色だった。

 何故だか妙に艶めかしく、見惚れてしまう。


紅―

紅――

―――紅


 彼が僕の視線を察知し、小首を傾げて微笑む。


「どうしたの?」


「あぁ……いや、なんでもない。美味しいね、このコロッケ」


 慌てて取り繕ったが赤面していなかっただろうか。

 していたとして、夕日色が隠してくれただろうか。


「あはは、なに動揺してるの? 美味しいのは分かってるよ、さっき言ったじゃない」


「ちょっと、ぼーっとしてただけだよ」


「そう?」


 結城はメンチカツを何度も咀嚼している。

 もしかしたら味を舌で分析しているのだろうか。


「今日帰ったら、この揚げ物よりもっと美味しいの作ってあげるからね」


 そうか。

 結城も自分の料理の腕に自信がある。

 本気で勝てると思わずとも、それなりに奥さんへライバル心が芽生えているのかも。


「もっと美味しいの作ってあげるからね」


「2回も言わなくてもわかってるよ。さっきの仕返し?」


「もット美味シいの作っテアゲるカラね」


「……結城?」



 声が、反響する。


――――モット美味しイノ作ってあゲルからネ


  あーちャン美味しいネ――――


 ――――もット美味シいの作っテアゲるカラね


ふフ。お肉タップり入ッテルね――――


      ――――あーちャン美味しいネ


   モっト美味シイの作ッてアげるカラネ――――



 一瞬のまばたき。

 次いでそこに、今まであった日常がなくなっていた。


 ゴォーン……ゴォーン……。


 遠くから響く鐘の音。

 不気味な、錆びた鉄を打ち付けるような……。

 心を不安定にする。


 世界に、紅と黒が広がっていた。

 錆のような赤黒い何かが、目に入る何もかもを覆っている。


 空が夕日とはまったく違う、原色で真っ赤だ。

 ドロドロした液体が雨のように降り注いでいる。

 それが建物に、街灯に、人に、ベンチに憑り付き、伝い、地面へと落下する。


 先ほどまで踏みしめていた樹脂モルタル舗装はなく、ぬめりを帯びた血の池になっていた。

 靴にまとわりつく液体の何かが、生き物のように蠢いてる。


 まただ。

 またこの情景。

 夢なのか、僕の頭がイカれてしまったのか。


――――もット美味シいの作っテアゲるカラね


 そして、目の前の結城も、また紅い。

 全身が深紅に染まっている。

 まるでペンキの塊のようで、とても人間ではない。


アーチゃん美味シイね――――


 幼馴染で親友の彼の、そんなおぞましい姿を直視したくなくて、目を背ける。


 だが、背けた先にあるのもおぞましいだけの光景だった。


 道を歩く人々は姿そのままで、頭がない。

 首の筋肉と骨の断面図を晒しながら、平然と歩いていた。

 足取りはしっかりしていて、映画のゾンビじみた自らを怪物とする主張もない。

 ハロウィンと呼ぶには凄惨すぎる。


 頭部が残っているのは結城だけだった。



 パープーパープー!

 ドンドンドン!

 音の外れたトランペットと太鼓。


 ベンチの下から、背の低い小人の楽団が這い出す。

 それぞれがマーチングバンドのように、トランペットかスネアドラムを携えている。

 まるでオモチャのようだが、操り糸もなく自律し、意思を持って動いている。


 いずれも、やはり頭がない。

 隊列を組み、音楽とも呼べない騒音をかき鳴らしながら、フラフラと裏路地へと歩いていく。



 グゥぅゥぐぐゥぅゥ……!

 腹の虫が鳴いている?


 道行く人々の後ろを何かが尾けている。

 肉の塊だ。

 そいつらのうめき声だった。


 肉屋に並んでいる精肉と同じ色の、全長1メートルほどの肉の塊。

 そうとしか形容できなかった。

 半球形で、地面と接地している箇所が圧し潰されていて、通った後に青い染みが続いている。

 全身をのたくる血管が、ドクンドクンと脈打っていた。


 奴らは通行人の後ろにつき、時折、ないはずの頭の上から襲い掛かる。

 口だろうか、あれは歯だろうか?

 たった一つ開いた大穴で人々に喰らいつき、バリバリ食べ始めてしまう。


 人々は無抵抗だった。

 誰かが喰われようと、自分が喰われようと、周囲の異様な光景をさえ一切気にかけない。

 怪物や異様をない物とし、何食わぬまま暮らしている。



 漂う赤黒い霧が渦を巻く。

 デタラメな気流に流されて舞い踊る。

 それは鉄錆の臭いがした。


 色が濃く、薄くを繰り返す。

 2色の明滅。

 規則性のない、自然光とも機械光とも違う鈍い有害な輝き。

 毒々しい。

 頭痛と眩暈と吐き気を催す。


 頭がおかしくなる。

 既におかしくなっているのか?

 吸った覚えのないハッパの幻覚がごとき地獄。


 夢なのか、現実なのか。

 狂気に彩られた穢れし醜悪な世界。

 バケモノと死が共存する領域。


 だが僕にはこの異常さが、セカイのもう一つの姿であると思えた。

 正気の内側に宿る病巣。

 ノーマルとアブノーマルの境界線上。


 現世は悪夢が視た幻なのだろう。

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