白いカラスを描くのは

王子

白いカラスを描くのは

 この子には名前なんて必要ありませんが、名前が無いと不便なことが多いですから、ここでは名無しちゃんと呼ぶことにしましょう。

 名無しちゃんはかわいくない子です。大人は『かわいくない』という言葉をいくつかの意味で使いますが、ここでいう『かわいくない』は、そのままの意味です。

 つまりは、化学実験で爆発したみたいな髪型、つき出たおでこ、あつぼったい一重のまぶた、豚を思わせる低い鼻、たらこくちびる、原始人のように角張ったあご。おまけに、ふざけて作ったのかと思われるほど分厚いメガネをかけていました。よく晴れた日には空の色を反射して水色に光ります。そんな空色眼鏡の女の子を、クラスのみんなは大変面白がりました。何一つ大げさではなく、名無しちゃんは本当にかわいくない子でした。

 ですから、当然のように学校ではいじめられていました。仕方のないことです。人間は誰かをいじめているとき、とても生き生きする動物だからです。

 名無しちゃんがいじめられる理由は他にもありました。いつも無口で、口を開くのは「おはよう」「さようなら」くらいで、他は首を縦に振ったり横に振ったりかしげたりしていました。いつも困ったような顔でおどおどしていて、笑った顔は誰も見たことがありませんでした。

 名無しちゃんには、唯一の特技と呼べるものがありました。絵を描くことでした。夏休みや冬休みに提出する絵は誰よりも上手でしたが、賞に選ばれたことはありませんでした。コンクールに出品する絵は先生達が決めるのですが、学校の中には誰一人として名無しちゃんに関心のある人はいなかったのです。

 名無しちゃんは律儀りちぎに約束を守る子でもありました。交代のゴミ出し当番も「代わりにやっといて」と頼まれれば忘れずにゴミ袋を運び、飼育係から「私、虫嫌いだから」と、ちょうちょの幼虫の世話を引き受けて、「私も虫は苦手なんだけどな」と思いながらも毎日葉っぱをちぎるのでした。

 ある日のことです。

 名無しちゃんが登校早々、いつものように机の上に散らかったゴミを捨て、ひきだしに飲みかけの牛乳パックが無いことを確かめ、机の落書きを消し、床にぶちまけられたロッカーの中身を、ホコリをはたいて元に戻していたときのこと。

 みんなの中心になって名無しちゃんをからかっている男の子がニヤニヤしながら近付いて来ました。この子にも名前を付けておきましょう。彼の名は、からかいくんです。

 基本的に名無しちゃんはいないものとして扱われているので、普段から話しかけられることは少ないのですが、からかいくんはなんとも楽しげに話しかけました。

「お前、絵が得意なんだろ」

 名無しちゃんは首を傾げました。絵を描くことは好きではありましたが、得意かどうかとかれると、自分では何とも言えないのでした。

 からかいくんは面白くありませんでした。誰よりも絵が上手いくせに、名無しちゃん自身もそう思っているはずなのに、あえて認めようとしない態度が。

「嫌味かよ、本当は俺達のことバカにしてるくせに」

 名無しちゃんはおびえるように肩を縮こまらせて、小刻みに首を振りました。

「まあいいや。描いてほしいものがあるんだけどさ。お前、カラス好きだろ」

 わずかに首を傾けてから、ゆるゆると否定します。カラスが特別に好きだと公言した覚えはありませんでした。

「俺は白いカラスが見たいんだよ。描いてくれるよな」

 いつも以上に困ったように眉は垂れ下がり、うつむいてもじもじと肩を揺らしました。そんなの無理だよ、と言いたげです。

 二人の会話を(名無しちゃんがしゃべらないせいで会話にもなっていないのですが)近くで聞いていた先生が口をはさみました。

「それは面白そうですね。では、白いカラスを描いてきなさい」

 先生が大変かいそうに白い画用紙を差し出し、それを見ていた周りの子達も描けよ描けよとはやし立てるので、名無しちゃんはしぶしぶうなずきました。

 嫌われ者の名無しちゃんが嫌われ者の代名詞であるカラスを描くなんて傑作けっさくだと、からかいくんは満足げに腕組みをしました。

 先生は「分かっているとは思うけれど、」と前置きしてから、名無しちゃんを見下ろして言いました。

「白いカラスなのですから、羽毛に黒い部分は一つも無いわけです。絵は実物に忠実でなければなりません。黒い輪郭線で描いて済ませるなんて、逃げるようなズルはしないように。あなたの体だって黒い線に囲まれているわけではないでしょう」


 休み時間、名無しちゃんは図書室で本を読んでいました。

 教室から出ていく名無しちゃんの背中を追って、からかいくんも図書室にやって来ていました。いつもは外でボールを追いかける遊びばかりなので絶対に足を踏み入れない場所ですが、この日は名無しちゃんを追いかけることが遊びになっていました。白い画用紙に、白いカラス。描けるはずもない絵を描こうと奮闘する名無しちゃんを眺めるのは、なんと胸の踊ることなのでしょう。

 名無しちゃんが本棚の間をキョロキョロ見回しながら歩くのを、からかいくんは監視していました。やがて名無しちゃんは一冊の本を手に取り、席に着きました。

 からかいくんは目を細めて、その本の表題をつぶやきました。

「『カラスはなぜ嫌われるのか』……?」

 名無しちゃんの背後に立ち、開かれたページをのぞき見ると、文字ばかりが並んでいてカラスの写真は無い本でした。たとえ写真があったにせよ、カラー印刷であろうとモノクロ印刷であろうと、白いカラスがることはないのですが。

「そんなの読まなくてもいいだろ! 早く白いカラスを描けよ!」

 突然の声に、椅子の上で飛び跳ねる名無しちゃん。

 本を胸に抱えて慌てて図書カウンターに向かい、図書委員にバーコードをピッとしてもらい貸し出し処理を済ませ、逃げるように図書室を後にしました。


 放課後、からかいくんの監視は続いていました。

 帰りの会の後、ゴミ出し当番と飼育係と、おまけに日直から頼まれたあれこれを終わらせてから、玄関で靴の中にい針が数本入っているのを見てしばらく立ち尽くした後、名無しちゃんは帰り道にある文房具店に入っていきました。

 お店から出てきた名無しちゃんの前に、からかいくんが立ちふさがりました。

「買い物なんてしなくていいだろ! 早く白いカラスを描けよ!」

 手に提げた白い袋をがさがさ言わせて、名無しちゃんは一歩後ずさりました。

「何買ったんだよ」と、からかいくんが強引に袋の中を覗き見ました。

 入っていたのは、白のクレヨンが数本。そして、

「おい、なんでこんなもの買ったんだよ」

 からかいくんの手には、数本の黒のクレヨンが握られていました。

「先生に言われたこと、忘れてないよな」

 描くべきは白いカラス。どう考えても不要な色でした。

「ズルして怒られるのはお前だからな」

 名無しちゃんにクレヨンを放り投げると、からかいくんは帰るふりをして、物陰に隠れました。尾行はまだ続きます。


 名無しちゃんが次に向かったのは公園でした。

 空は早足で夕方から夜へと入れ替わっていきます。日が落ちるにつれて空気も涼しくなってきて、近づく秋の気配を知らせていました。

 名無しちゃんはブランコに腰掛けると、なんの特徴も無い一本の木を眺めたまま、じっと動かなくなりました。

 しばらく黙って様子を見ていたからかいくんでしたが、手足の指先が徐々に冷えてきて、我慢ならずに名無しちゃんの前に飛び出しました。

「公園に用なんてないだろ! 早く白いカラスを描けよ!」

 名無しちゃんはまたもや驚いて、座っていたブランコからずり落ち、お尻で着地しました。腕と足を前に放り出し、お尻だけで体を支えている情けない姿で、からかいくんに向かって首を横に振りました。

「は? 何がだよ」

 どんくさい動作でブランコに座り直した名無しちゃんは、もう一度首を振ってから、さっきまで眺めていた木を指差しました。

 からかいくんが木に近づいてみると、揺れる葉陰の中に動くものが見えました。

「あっ」

 そこにいたものを認めると、ゆっくりと木から離れて、名無しちゃんに詰め寄りました。

「お前本当に分かってるのか? 描くのは白いカラスなんだぞ」

 日は完全に隠れ、電灯が心もとない光を二人と木々に落としていました。

「こんなところでサボってたら間に合わないだろ。明日、絶対に白いカラスを描いてこいよ。絶対だからな。約束だからな!」

 今度こそ帰途に着いたからかいくんの背に名無しちゃんは「約束……」とポツリこぼして、コクリと一つ頷きました。


 名無しちゃんは「ただいま」と言いましたが、返事はありませんでした。きちんとお母さんの顔を見て、聞こえるように言ったのですが。家にも名無しちゃんに関心のある人はいません。名無しちゃんはかわいくないので仕方がありません。

 名無しちゃんには、記念日がありません。誕生日を祝ってもらったこともなければ、卒園のときも入学のときも、普通の日でした。この日も名無しちゃんの誕生日でしたが、誰一人興味はありませんでしたし、誕生日を祝っても名無しちゃんが今よりかわいくなるわけではないので、祝う必要もありませんでした。

 そんなことよりも、今は白いカラスを描くべきなのです。

 新聞紙の上に画用紙を広げ、盗まれないようにと、こまめに家に持ち帰っているクレヨンセット、買ってきた白と黒のクレヨンを並べ、下書き用の鉛筆、消しゴム、その他の必要な道具をそばに置いて、公園で見た黒いカラスを思い浮かべながら描き始めました。


 翌日の朝。

 先生もからかいくんも、周りで盗み聞いていたクラスの子達も、名無しちゃんが白い画用紙に何を描いてきたのか、そもそも描いてきたのか、楽しみに待っていました。

「さぁ、絵を見せてみなさい」

 先生が薄ら笑いでうながすと、名無しちゃんは手提げバッグにそろそろと手を差し入れ、画用紙が包まれた新聞紙を取り出しました。「さあ、みなさん見てください」なんて様子はじんも無く、臆病おくびょうな手つきで新聞紙を広げました。

 みんなの頭には「何ですかこれは、真っ白ではないですか」「なんだよ何も描いてないじゃん」「ブスでメガネのくせに絵も描けなくなったとか救いが無いな」などなどなど、名無しちゃんに投げかける言葉が用意されていました。

 しかし、一枚の絵を中心に、沈黙が訪れました。

 みんなの視線を一身に集める画用紙には、間違いなく白いカラスが描かれていました。誰も実物を見たことなど無いはずでしたが、描かれたものを、誰もが白いカラスだと思いました。

 からかいくんは、じっくりと絵を観察していきます。

 背景は黒いクレヨンで塗りつぶされていました。隅々まで隙間なく黒が行き渡っています。画面上部と左右に目を向ければ、黒い世界にヒビが入ったように、色とりどりの線が走っています。それらの滑らかな直線あるいは曲線は、途中で色を変えながら木々を形作っていました。幹から枝から葉脈に至るまで、さいり、みつな線が張り巡らされています。描かれてはいませんが、画面の外には光源があるのでしょう。夜闇に息づく木々がプリズムとなり、光を七色のスペクトルに分解して、輪郭を作っているかのようでした。

 画面中央には、ぼんやりと浮かび上がるように、大小二匹のカラスがいました。

 小さい方のカラスはまんまるな黒目を煌々こうこうと輝かせて首を持ち上げています。視線の先には大きいカラスの顔。真っ直ぐ見上げる瞳を優しく包み込むように、生きた光を宿す水晶体で見つめ返しています。二匹の体は、秋の夜長に取り込まれてしまわないよう、寄り添っているように見えました。

 全てをなめるように見尽くしたからかいくんは、昨晩の公園を思い出していました。名無しちゃんと見た、揺れる木々、カラス、電灯。

 名無しちゃんの行動を監視していたのに、彼女が何を考えていたのか、どうやってこの絵が生まれたのか、からかいくんには分かりませんでした。それは悔しくもありました。

「これ、どうやって描いたんだ」

 名無しちゃんは「あっ」「えっと」と、誰が見てもいら立つほど口ごもっていたので、先生が横から説明します。

「スクラッチ技法ですね」

 みんなが疑問符を浮かべる中、名無しちゃんが先生を横目で見ながら首肯しゅこうしました。

 先生はそんな反応に一切目もくれず、説明書を読み上げるように続けます。

「『ひっかき絵』や『削り絵』とも呼ばれます。この絵は二層で着色されているのです。下地となる一層目は、様々な色を使い、パッチワークのように画面を埋めていきます。その上から、全体を黒のクレヨンで塗りつぶし、二層目とします。そして、黒のクレヨンを何かしらの道具を使ってひっかき削り取れば、下地の色が現れるというわけです。花火や星空など、夜空を表現するときに使われる技法です。木々に色が付いているのは、そういうわけです」

 からかいくんは、それで少し分かりました。

 名無しちゃんがブランコに乗っていたのは、ただカラスを見ていたのではなく、夜の公園の景色を観察していたのだと。それから、黒のクレヨンを買っていた理由も。

 からかいくんは考えます。でも、カラスは白くなくてはいけない。カラスの下地は黒で一層だけ塗って、削れば、画用紙の白が見えてくるのか……いや、そんなことをしたら紙がボロボロになってしまうに違いない。どうしても分からない。

 疑問の答えを探るように、カラスの体に直接指で触れました。名無しちゃんは何も言わず、その指先がカラスの親子をなぞるのを見守ります。

 流れる翼のカーブに沿って。つややかな頭とくちばしを。胸元の柔らかな羽毛を一本一本確かめるように。からかいくんの指先は、生きたカラスに触れるように慎重でした。真っ白なカラスの体には確かな骨格を感じさせる凹凸おうとつがあり、絹糸のように繊細な毛並みがありました。全てが白でした。

「このカラスはどうやって」

 名無しちゃんに向けられた質問でしたが、名無しちゃんはもじもじするばかりなので先生が代わりに答えます。

「カラスの部分だけ、白いクレヨンで二層分の厚みを出しているのでしょう。表面の削り方に強弱をつけて羽毛の質感を再現しているのです。この細さからすると、削るのに使ったものはおそらく……」

「針……」

 全員が声のした方を向きました。思わず漏れてしまった声を引っ込めようとするように口を抑えていたのは、一人の女の子でした。それを見て名無しちゃんは、自分の靴に縫い針を入れたのが誰なのか知ることができました。

「じゃあ、あの本はなんだよ、嫌われ者のカラスの本。あんなの読んだって、絵には関係無いだろ!」

 だんだんと意地になってきて声が大きくなるからかいくん。ですが、この質問に先生が答えることはできません。みんなの視線が名無しちゃんに突き刺さります。

「あの本で、カラス、好きになれた」

 みんな静まり返っていたので、どれだけ小さな名無しちゃんの声でもよく響きました。

「好きな、ものを、描きたかったから」

 絞り出すように理由がつむがれました。

 でも、そんな言葉で誰かの胸を打てるわけでもなく、ただただ場が白けただけでした。

「はい、朝の会を始めますよ」

 先生が朝いつも教室に入ってくるように手をパンパンと叩き、みんなは大人しく席に着きます。名無しちゃんもうつむきながらそろそろと椅子に座り、広げた絵をしまいました。

 からかいくんは自分の席に戻りがてら、通りがかりに名無しちゃんにひそひそと声を掛けました。

「あの絵はすごいけどさ、こうなるって分かってただろ? 俺もどうせ描けっこないと思ってたんだ。どうしてバカ真面目に描いてきたんだよ」

 描こうが描くまいが、みんなは名無しちゃんをいじめますし、先生達は名無しちゃんを好きになりませんし、親は名無しちゃんを愛することもないのです。からかいくんの言葉は、ただのいじわるではなく、ほんの少しの「ドンマイ」が含まれていたのかもしれませんでした。

 それでも、白いカラスを描くのは。名無しちゃんがボソリと返します。

「約束、したから」

 からかいくんは息を呑みました。そして教室を見回しました。

 先生はチョークの音を高く鳴らし黒板に連絡事項を箇条書きしていて、みんなは隣近所と笑い合いながら井戸端会議をしていて、窓の空は秋晴れで、白い雲は高くて、開け放った窓からかすかにキンモクセイの匂いがして、名無しちゃんは力なく頭を垂れて静かに机の天板を見つめていました。

 一人の男の子が、名無しちゃんのそばで突っ立っていたからかいくんを不思議に思い、言いました。

「おい、どうしたんだよ。あんなズルい落書きに感動しちゃった?」

 ズルい……? からかいくんには、彼の言っていることがよく分かりませんでした。戸惑いの表情を浮かべていると、男の子は続けます。

「だって、ちゃんと描いてないじゃん。塗り重ねるとか、削るとか、そんなの絵って言わなくね?」

 そうなのか? あれは絵ではないのだろうか。からかいくんは上手く言葉にできないと分かりながらも「それは」と言いかけると、待ってましたと言わんばかりに男の子がさえぎります。

「あれぇ、かばってあげちゃう感じ? もしかしてお前、そいつのこと好きなの?」

 からかいくんは、そのからかいの言葉に、さすがに我に返りました。自分は何をむきになっているのか。名無しちゃんの絵にどんな救いの手を差し伸べようとも、自分には何の得も無いのに。

「バーカ! そんなわけないだろ。こんなブスいなくなればいいし、こいつが何を描こうが俺には関係ねぇし。どうでもいい」

 からかいくんは真っ直ぐ自分の席に向かいました。振り返って名無しちゃんの顔を見ることもありませんでした。

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