満月

 月夜に再会したのはさらに三年ほど後のことだった。私は月夜の行方も丈二さんの行方も知らなかったが、いささか唐突に届いた月夜からの手紙で息災を知った。きっと私が宿に泊まる時に書いた住所を憶えていたのだろう。髪を染めているので驚かないでください、と書いてあった。

 彼女が訪ねてきたのは九月のよく晴れた晩だった。確かに彼女は髪を黒く染め、顎くらいまでの長さに切り揃えていた。白いワンピースもモダンだった。ただ眼鏡をかけてそのレンズに青っぽいスモークがかかっているのだけが特殊だった。その眼鏡をかけると月夜の青白い瞳は思ったほど目立たなかった。

「この明るさが見えるのですか」私はまずそこに驚いた。まだ常人でも遠くが見渡せるほどの照度だった。

「あれから少しずつ目を慣らしたのです。あまり晴れていると今でも痛みますけど、大方尋常です。ただ暗闇は見えなくなりましたし、視力も悪くなりました。この眼鏡にも度が入っているんです」

「心配ですね」

「ええ。玄関先というのもご迷惑でしょうから、少し歩きませんか」

「いいですよ。月の見えるところへ案内しましょう」

「お願いします」

 私が先導して道へ出た。

「もう少し松原様と夜歩きをしておけばよかったって、あの後長い間後悔していたんです」

「夜闇が見える人間と、夜闇が見える話をしたかった、ということですか」

「そんなところです」

「手紙にはあまり最近のことは書いていませんでしたが、どうなのでしょう、例えば丈二さんは」

「彼も元気ですよ。でも松原様にはあまり今の話をしたくないのです」

「心配ですが」

「いえ、そんな身をやつすような生き方はしていませんよ。十分豊かです。ただ、何と言いますか、松原様の前ではわたしは夜歩きの月夜のままでいたいのです。松原様は本当のわたしを知っている数少ない一人ですから」

「本当のわたし、ですか」

「ええ。今の世界は綺麗です。でもわたしにとってはなんだか終わりの後の世界のような感触なのです。そこはかとなく浮ついている、と言いますか」

「なるほど。そうですか、それは……そう、私も知っています。戦後の世界というのは私にとってはそんなものですね。私という生き物の生も死も、そのリアリスティックな部分は全てそれ以前の世界に置いてきてしまったのだと」

「わたし、なぜ松原様に惹かれたのか、今の言葉でわかったような気がいたします」

「似ているのでしょうか」

「以前のわたしは犯罪の自意識に苛まれていました。この殺しは犯罪なのではないか、と。そんなわたしに松原様は犯罪ならざる殺しの存在を教えてくださいました。わたしの殺しは依然犯罪なのかもしれません。いえ、犯罪なのでしょう。でも殺しを定められた人生というのもまた人によっては避けられないものだとわたしは知ったのです。犯罪のためにわたしの人生があるのではない、わたしの人生のために犯罪があったのだと、そう思えるようになりました」

「それは正しくはないでしょうね。でもあなたにはその権利がある」

「そう、そう思います」

 表通りの喧騒を離れ、キリギリスなどの鳴く草叢を上ると少し高まった川辺の土手に出る。私の散歩コースの一部であった。

「満月ですね」月夜が言った。

「やっといい月見日和になりました」

「長かったですね」

「ところで山城山の旅館のことでまだ引っかかっていることが二つあるのですが」

「なんですか?」

「月夜さんの夜歩きの案内には先代がいたのですか?」

「母ですよ。松原様よりいくらか劣るほどだったとは思うのですが、母も夜目が利いたのです。それでいくらか案内をやっていたと聞きました。でもそれも年々冴えなくなって、早々に私に役目を譲ったのです。私ほど夜歩きの才もなかったので、単に判断違いでお客様に怪我をさせてしまったことも少なからずあったと思います」

「ではあの近辺で起きていた行方不明のケースは登山者の単独事故と案内中の故意ならざる事故とも多分に含まれていたということでしょうね」

「はい。おそらくは」と月夜。「それで、二つと言いましたね」

「ええ。そう、今しがた話に出た夜歩きの才ですが、月夜さんはどうですか」

「近頃ですか?」

「ええ。あれはとても不思議な能力でした。なぜ険しい道があんなにも平坦に感じられたのか」

「自分でもよくわからないんです。ただあれは単純な夜目の良さとはおそらく別物です。見えなくなったとは感じるのですが、歩くのが遅くなったとは感じないですから。まあ、試してみようにもあまり険しい道がなくなってしまいましたね」

「手頃な岩場でもあればいいのですが」

「ええ」

「あ、いや、月夜さん、あなたは健在ですよ」私は来た道を振り返っていた。普段なら土手の下にある自分の家が見通せる範囲で引き返すのだが、いつの間にか初めて見る景色のところまで来てしまっていた。さほど長い時間喋っていた感覚もなかった。

「わかるのですか?」

「私は普段こんなところまで歩いてこないのですよ。それがいつの間にか」

「そうですか」月夜は少し嬉しそうに答えた。

 以前よりいくらか大人びた彼女の顔がやわらかく月光を浴びていた。


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月夜の月夜(つきよのつくよ) 前河涼介 @R-Maekawa

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