月光
その午後私は月夜の部屋を訪ねた。内蔵の襖は二重になっていて間に玄関のような上がり框が備えてあった。
私は襖を開ける前に問いかけた。
「月夜さん、私は自分の話をしに来たつもりなのですが、その前に一つ聞かせていただけませんか」
「なんでしょうか」くぐもった声が答えた。
「昨晩は本当のところどうされたのですか。あなたに何があったのですか」
しばらく答えがなかった。私は襖に顔を突き合わせて待っていた。
「松原様は恐れているのですか」
「はい。恐れています」
「私から能動的には何もいたしません。ですから誓ってください。私を決して辱めないと」
「誓いましょう。決してあなたを辱めない」
「では安心してください。その誓いの存する限り松原様は安全です。無事この宿を去ることができるでしょう」
わたしを辱めないと。
その言葉は丈二さんの説を補強するものだった。高沢さんはおそらくその誓いを守れなかったか、そもそも誓いを立てなかった、ということなのだろう。
「お入りください」月夜は言った。
私も意を決した。
手前の襖を閉めた時点ですでにほぼ視界が奪われるほどの暗さだったが、奥の襖を閉めるとそれもまだ明るかったのだと思えるほどの暗さになった。部屋には当然窓などなく、光は入らないし、それどころか壁の外に世界が存在していることが信じられないほどの閉塞感があった。
月夜は部屋の奥に正座して待っていた。青にキスゲ模様の着物、橙の帯、遮光グラスはかけていない。昼間でも完璧な闇がある蔵の中では裸眼で過ごせるようだ。
「革の匂いがしますね」
「お客様のためのブーツを縫っているんですよ。足のサイズに合わせて、川に入っても浸みないようにしないといけないですから、きつく縫うのが大変なんです」
「そういえば材料の仕入れはどうしているのですか」
「電話で注文しているんです。そうすると業者さんが下まで来て、バス停にポストがあるので置いていってくれるんですよ」
月夜は話しながらポットからお湯を注いで急須にお茶を淹れ、畳の上に茶托を置いた。
「聞かせていただけるんですね」
私は緑茶を一口飲んだ。革の匂いとブーツの話が私の心を十分に落ち着けてくれていた。
「私は夜間戦闘機の偵察員でした」
「偵察員というのはパイロットとは違うのですね」月夜も一口飲んで答えた。
「はい。海軍の場合、機体の操縦、射撃など基本的な操作は全て操縦員、パイロットの役割でした。偵察員の役割といえば無線電話の扱いを少し分担するだけで、あとは窓の外全天を隈なく監視する。監視に専念する。それが決して怠っていけない偵察員の役割でした」
「二人乗りなのですね?」
「はい。夜間戦闘機というのは戦闘機といっても華々しい空戦などは一切しないものです。ただ黙々と、大きく鈍重かつ堅固な重爆撃機に向かっていってそれを撃墜するものです。図体が大きいので敵の護衛の戦闘機が出てくれば一方的に追われるだけ、まず仕事になりません」
「空襲を食い止めるために戦っていたのですね」
「建前としては、そうですね。私たちの活動はほぼ昭和二十年の春だけのことでしたが、日によって一夜にして数百、千幾百という米軍の爆撃機が各地の都市を目指して押し寄せてくるのです。とはいえその群れも全天にすれば微小な点の集まりにすぎません。それに月夜というのも珍しく、多くは薄い月、あるいは曇り、地上は灯火管制ですし、探照灯も特定の地域にしか配備されませんでしたから、その光が届く範囲もまたごく狭い範囲に限られていて、私たちはどうしても暗闇の中で相手の姿を探し求めなければなりませんでした」
「闇夜の時は何が手がかりになるのですか?」
「しばしばエンジンの発火が遅れて排気管から炎が出るのですが、その光を探します。小さな光ですから距離一キロもあるともう勘のようなものですが、それでも見ようと思えば見えるのですよ。少しでも月明かりがあれば窓ガラスなどの反射も頼りになります」
「だからお仲間のみなさんで夜目を鍛えたということなのですね」
「ええ。普段から昼夜逆転生活をして、日のあるうちはサングラスをかけて歩いたものです」
「私と同じですね」
「月夜さんにそれを強いるのは天稟です。私たちの場合にはただ他人がそれを強いただけです。程度の差もあります」
「さだめ、という点では同じではないですか」
それはどうだろうか、と私は考えた。
「いずれにしても、かつてはそのような、つまり、夜闇を見通すという、私と同じ役目を負った方々がいたのですね」
「ええ」
「そうですか」月夜はそう言ってお茶を注ぎ足したあと、しばらく私の話のイメージを膨らませるように沈黙していた。
そして彼女は少し趣向の違った質問を投げかけた。
「ところで、米軍の爆撃機を撃墜するということは、そこに乗っている人々が死に至る虞もあるのですね」
月夜は私の聞きたいことを自分から話してくれるかもしれなかった。
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