月客
私が新しいお客と話をしたのはその晩、風呂に入りに行ったのだが、彼が先客であった。彼は湯船で脚を伸ばし、畳んだタオルを頭に乗せていた。
「ああ、これは失礼」私は誰もいないだろうと高を括っていたのでややたじろぎながら手ぬぐいを広げて前を隠した。
「貸し切りじゃないんですから、失礼なんてありませんよ、何も」彼はよく通る声で答えた。「
「松原です」私は体を流して湯船に入った。
「こう少人数だと自己紹介でもしたくなってしまいますね。いや、他のお客さんがいるのが珍しいくらいだと聞いていたので、まさかとは思いましたが」
「わかります。この時期ですから、これでも多いくらいなのでしょうね。ああ、こういった話は少々宿に失礼でしょうか」
「これは確かに、かもしれませんね」
彼は立ち上がって鏡の前で体を洗い始めた。歳は五十絡みに見えたが、十代と言っても通りそうなほど引き締まった肉体をしていた。
「高沢さんも月見ですか」
「ええ。私も月客です。登山道を東へ逸れたところに
「ええ、月夜さんの案内で」
「彼女の目はとても色が薄いですね」
「ええ」
「あの魅力は満月にも近しいものを感じます」
「魅力ですか」
「感じませんか」
「綺麗だとは思いますが」
風呂上がりに部屋でサイダーを飲みながら涼んでいると、ある時廊下の明かりが三十秒ほどの間だけ消えた。おそらく月夜が通ったのだろう。とすれば高沢さんが案内を頼んだということではないか。「蟻渡り」と言ったか。
私はそのあと何か予感めいたものに駆られて帯を締め直し、ちょっとした月見の体で灰皿片手に玄関を出て表に置いてある長椅子で何本か煙草を吸った。十五夜に近い月は明るく、木々や城壁の影は地面にくっきりと落ちていた。
一時間ほど経って月夜が戻ってきた。格好はバス停の迎えに来た時とよく似ていたが、着物は臙脂に白椿で、その衿がよれて妙に首筋が見えていた。
彼女は私より五秒ほど遅れて私の姿に気づいた。この月明かりは彼女には明るすぎたのか、別の何かに気を取られていたのか、どちらかだろう。
「松原様、いらしたのですね」月夜はすたすたと私のところへ歩いてきて言った。少し息が上がっていた。
「ええ、少し月見に」
「それはすみません」
「いえ、あまり歩きたい気分ではなかったですから、いいんですよ」
月夜がいささか煙たそうにしたので私は煙草を消した。
「高沢さんはどうされたのですか」私は訊いた。それからもう一度月夜の着物を見た。衿もそうだが、肩や袖が汚れているように見えた。
「ああ、いえ、急用とのことで急いで下山されたのです」
「その案内でしたか。するとこんな時間にもバスが?」
「いえいえ、さすがにタクシーを呼びました。少し待たされてしまったので早く普段の仕事に戻りたくて。わたしでも急ぐと木の枝に引っかかったりして、いけませんね」月夜はそう言って自分の肩を払った。
「大丈夫ですか?」
「ええ、はい。では失礼いたします」
高沢さんは一人客であった。結婚指輪の跡がないのも風呂で見た。もしやと思って戻りがけにこっそり彼の部屋を覗くと、果たして広げた荷物はそのままになっていた。
それを目にして私はそこはかとない息苦しさに襲われたが、とにかく部屋に戻って布団に潜り込んだ。眠気を待ちながら言葉にも論理にもならない思考をぐるぐると巡らせているうちに、まるで夜の深みに嵌まり込んだような不完全な眠りを経て私は朝を迎えた。
朝食のあとに宿のアプローチをどうにか下って蟻渡りを探した。ガレ場の右手に比較的目立った獣道があって、どうやらそれらしかった。
低木を掻き分けていくと足場が土から岩盤に変わり、次第に両側の地面が切れ落ちて一本道、もはや平均台のような様相を呈してきた。横から強風でも吹こうものなら崖下に真っ逆さまと思われた。すでに二十メートル近い高さだった。
岬のような道の終わりに一つの大きな石があり、二三人で腰掛けるのによさそうな大きさと形をしていた。確かに良い眺めだった。
私はそこに座って崖下を仔細に眺めてみたが、人が落ちたような痕跡はまるでなかった。彼は一体どこへ消えてしまったのだろう?
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます