女将

 旅館の運営はわずか三人の人々の手によって成り立っていた。その中でまず述べるべきは女将であり、経営、受付、客室の管理などは全て彼女が管轄していた。東京からの私の電話を取ったのもやはり彼女であった。夕方番台で帳簿をつける時を除けば常に御殿の中を動き回っていた。

 女将もまた城一族の血筋で、実の娘が月夜であった。女将は瞳も髪も黒く、また障碍もなかったが、容貌そのものはよく似ており、歳もまだ相応であったので、それなりに人出のある所に出ていけば十分に宿の看板として客を集められただろうと思えた。

 娘の方は明るいうちは外に出られないし、電灯も眩しすぎるというので夜にしても他人と協働するのは無理であり、専ら夜間の外回りの掃除と送迎のみに駆り出され、あとは部屋の中で静かに革の長靴を縫っていた。

 すると残すは厨房の役割だが、これは丈二さんという若い青年の請負いであった。丈二さんは名字を佐和山といって城の一族ではなかった。まだ女将の夫、つまり当主が存命だった頃には従業員ももういくらか多く抱えていて、丈二さんの父上が厨房を統括していたという。父上は他のホテルに引き抜かれて九州を離れたのだが、料理人を目指す次男を城家に残して修行させた。丈二さんは周りの料理人が去っていったことで繰り上がりにして料理長かつ唯一の料理人となったという。


 以上の話は翌朝部屋に朝食を運んできた女将から聞いたものである。

「松原様はどのようなご用でこちらに。いえ、道すがら、というお客様はめっきりないものですから」

「なに、取材です。大したものじゃありませんが、昔雑誌の編集をしていたよしみで頼まれましてね。この宿から見られる月が綺麗だというので」

「月の記事ですか」

「いえ、月の見える宿の記事です」

「では」とそこで女将は旅館のあらましを語ってくれたのである。冒頭の来歴に関する部分もその受け売りであった。彼女は正座して時折私の茶を継ぎながら語り、私は茶碗を片手に聞いていた。

「ところで月を見るのは窓がいいですか。他にいいポイントがあればお聞かせ願いたいですが」

「どこ、どこ、と言ったって、直接見る月はどこから見てもあまり変わるものじゃありませんよ。きっと逆映しになった月がいいのでしょう。そういうことなら古月湖こげつこです。山の裏手にあって、天守に登ればよく見えます。是非にということなら月夜に案内させましょう」

「構いませんか」

「ええ。行かれるなら。でもくれぐれも気を付けてください」

「やはり暗いですか」

「いいえ。暗さそのものより、月夜に、です」女将はそこから口に手を添えてひそひそと続けた。「月夜の案内さえあればどんな暗がりにも危険はございません。ですから夜闇の中では決して月夜から離れてはいけないのです」

「ん、逆に言えば、彼女が客を置いて行ってしまうということがあると? そんな不親切な方とは思えませんが」

「いいえ。それが時にわからないのです。あの子がお客様を連れて出ていって一人だけで戻ってくるということが今まで何度かありました」

「残されたお客さんも一人で戻ってこられるのですか」

「いいえ。戻られません」

「戻らない?」

「行方不明です。本人に問いただすと勝手に離れていってしまったというのですが、何度訊いても同じ答えなのです。そう何人も何人も忠告を無視して行ってしまうものでしょうか」

「彼女が何かしたとお考えですか。あるいはお客の方が……」

「事実はわかりません。でもそんな気がいたします。ですから本音を言いますと夜の外出はおすすめしていないのです。できればお客様たちには日中に楽しんでいただきたいのですが、いつの間にか夜景が売りになってしまったもので、それでは来た意味がない。夜は月夜の世界ですから、月夜に頼むより他に手もありませんし、私がついていったところで止めようもありません。母親としても至らないのですが、どうもわからないところの多い娘なのです。もしかするとあの目のせいで外界と関われないルサンチマンが何かよからぬものを掻き立ててしまうのかと……」

「難しいですね」

「とにかく、お気をつけを」

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