暗闇
「歴史のある旅館だと聞いていますが、昔からこんなに険しい道で里と結ばれていたのでしょうか」私は訊いた。
「いえ、街道が通っていました。でも二十年ほど前の山崩れでどうにも直せなくなってしまって。直す需要もない、というのでしょうか。それに先ほどの川がたいへんな暴れ川で、雨の度に道を埋めてしまうので、きちんとしたアプローチを整備することができないのです。私が生まれた時にはもうこうして獣道を行き来していたようで」
「それで客が来る度にこうして?」
「夜は、ええ。夜が多いですし、わたしなら夜でも道を選んで歩けますので」
たっぷり三十分も登山をしてようやく大手門に辿り着いて、建物の周りは少ないなりに灯火があるので月夜は再び遮光グラスをかけた。
「もうすぐ着きますよ」
「私のような老人に足並みを合わせるのは大変だったでしょう」
「いいえ。松原様はどちらかといえば足腰も心肺も強い方です」
「それは意外。ともかく助かりました」
午後十一時前、御殿の中は真っ暗だった。月夜の目のためだろうか。床も壁も黒い板張りで窓もない。これほどの暗がりの中、彼女はあるいは聴覚に頼って空間を把握しているのかもしれない。
「他の者はもう眠ってしまっています。朝が早いですから。夜の番はわたしの務めです。これからお部屋に荷物を置いて温泉にご案内します。ああ、入られますか?」
「そうですね。それから眠りたいですね」
「では、今夜はお客様は松原様だけですので、上がられたらわたしの部屋に一度ノックをしてくださいますか。わたしでは確認が難しいので、たいへんお手数なのですが」
「はい。構いませんよ。よく覚えておきます」
「ここがわたしの私室です」
そこはどうも
戸枠の内側には他の部屋と変わらない襖が嵌め込まれていたが、普段使いしない側の戸は銀紙と糊で目張りしてあった。
私の部屋は六畳ほどの一間で、窓の前に床と飾り障子がついていた。古いことには古い。落とそうにも落せないシミや汚れはあるし、テレビも電話もなく、天井だけは上に溜まった埃か何かの重みで逆ドーム状に垂れ下がっていたが、それでも覚悟したほどの老朽感はなかった。なにより部屋も廊下も点けようと思えばきちんと明かりが点いて、それが妙に幸いに感じられた。
私は荷物を開けて風呂に行った。五人も入ればぎゅう詰めになってしまいそうな湯船だが、小さいなりに温泉らしい設えで、きちんと濁った黄色い湯が吐き出されていた。
この後にあの少女が入るのだな、と思うと少しきれいに使わなければいけないという気持ちになった。きっと明かりを消して入るのだろう。だから汚れはわからない。だが足を滑らせたりしたらいけない。
呼びに行って少し部屋の前で立ち止まってみたが、中からは何の物音も聞こえなかった。当然明かりも漏れていない。人はおろか生き物の気配さえ感じられなかった。本当にいるのだろうか。そう思いながら戸枠に上って襖の縁に呼びかけを吹き込んだが、果たして返事はあった。なんだか恐ろしい感じがした。
「お風呂先に頂きました。どうぞ入ってください」
「どうも丁寧にありがとうございます」月夜は声を張るでもなく淑やかに答えた。その声はとても小さく聞こえた。
私は廊下の電灯を消して上階に上った。
不思議な気分がした。
鶴の恩返しだとか、狐の嫁入りだとか、月夜の部屋の前で感じたのはそういった変身譚の雰囲気だった。月夜の人間離れした容姿や不思議な能力がそう感じさせるのだろうか。
むろん私は人間に化ける他の動物を見たことはないし、その逆も然りだった。他人の話にも聞いたことがなかった。ただそういった伝承を聞いたり読んだりする時に独特の感覚を呼び起こす何かがあの部屋の中に巣食っていた。それだけは確かだった。
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