板前
私はその日旅館の周囲を散策することにした。もちろん日中の話である。
旅館が客室を置く御殿は城の三の丸にあり、さらに二の丸、本丸と門をくぐって
私は天守の車寄せに三十分ほど座って体力を回復した後、三の丸の外に出て森の中を見て回った。
昨晩暗闇の中を歩いた取り付き道にもかろうじて太陽が差していたが、私はまた妙な気分になった。
振り返って大手門を見ると確かに方角は合っていた。だがそこにあるのは崖崩れの後のような一面のごつごつと尖った岩々だった。
道などどこにもない。あの岩の頂点にあるわずかな平面を寸分の狂いもなく踏んで登って来たというのだろうか。
信じられなかった。ちょっと踏み外しただけで岩の間に落ち込んでそのまま落命していてもおかしくない景色である。この一帯は夜の間だけ平坦な地面に変身するのだ、とでも言われた方がよほど説得力がありそうではないか。
私はぶるりとひと震えして踵を返した。現実逃避であった。
比較的なだらかな稜線を行くと足元には様々などんぐりが落ちていて、丈二さんがその中から身の詰まっていそうなものを選んで大きな笊に集めていた。
「こんにちは」
「ああ、どうも、お客さん、確か……松原さん」丈二さんはいささかあたふたしながら振り返った。がさがさと地面を漁っていて私の気配に気づかなかったらしい。
「今朝は特に茶碗蒸しが美味かったですよ。ごちそうさまでした」
「いえ、それはどうも」
「食材ですか」
「こいつは人に出すものじゃありません。ウサギの餌に混ぜて太らせるんです。肉の風味も良くなる」
「ありましたね、ウサギ小屋」
「こっちは下で採ってきた山菜ですから、今晩出しますよ」
「いいですね」
丈二さんが笊の横に置いた小さな籠の中を私もちょっと覗き込んだ。ワラビやウルイが入っていた。
「下、というと、この旅館の取り付き道は少し険しすぎませんか」
丈二さんがどんと座ったので私も腰を下ろした。
「堪えましたか」
「いいえ、逆です。登ってきた時はまさかあんなに険しいとは」
「なるほどね。つまるところ、松原さん、月夜のことが不思議でしょう?」
「不思議、というと」
「彼女は、何というか、ちょっと敏感なんです。繊細に周りの生き物の声を聞いて、そうやって暗がりの景色を見てるんですわ」
「それで夜の闇を歩けると」
「ええ。明るみで目が使えない分、勘を伸ばしてカバーしている。それだけですが」
女将に比べると丈二さんの捉え方は至って楽観的であった。そしてより月夜の立場に寄り添った見方であった。
「月夜に気をつけろと女将に吹き込まれましたか」彼は訊いた。
「ええ。あれは本当なのですか」
「その言葉の部分だけなら、そうでしょう。ただ僕は女将と同じ言い方はしません。つまり、いくら暗くても月夜には見えています。誰のおかげで夜のこの山を歩き回れるのか、それを忘れないことです」
「忘れる、というのは」
「手を出してはいけない、ということです。戻らないのはみんな男のお客さんでした。それも三十代から五十代。月夜は器量良しでしょう? それでもって他に誰もいない暗闇の中、体に触れさせている。彼らは勘違いしてしまったわけです。嫌がってもやめないなら、月夜としては逃げる他ない。わかりますでしょ?」
「丈二さんはその場を見たのですか」
「いいえ。見えるわけがないです。たとえその場に居合わせたとしてもね。もし見えてたら割って入ってますよ。それで、置き去りになんかせずにその場で崖下に突き落としてるでしょう」
「では月夜さんから聞いた話ですか」
「そうです。本人がそう言ってるんです」
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