5-2

「よく来てくださいました」


 少女は言った。慈しむようなほほえみを浮かべて。


「元気そうだな」


「ええ。おかげさまで」


「地上は君のおかげで大騒動だ」


「ママに心配をかける格好になってしまったことについては、わたしも心を痛めています」


「だが、ここを出る気はない」


「ええ」そう言って、腹をなでた。「この子が生まれるまでは」


「あくまで産むつもりなのか」


「どうしてそんなことをお訊きになるのです?」


「わたしは君に謝らなければならないことがある」


「天使様が首を垂れる理由なんてありませんわ」少女は言った。「わたしはずっとマリア様に憧れていました。自分でも子供を産みたい。そう思うようになるまで時間はかかりませんでした」


「だから、ウルスラたちに接触した」


「ええ、彼女たちは生命を創造する術を知っているとのことでしたから。しかし、いま思えば彼女たちの手を借りなくて正解でした。わたしはそんな手に頼らずともこうして命を授かることができたのですから」


「あの夜、わたしは夕食の後、礼拝堂で遅くまでお祈りをしていました。そこにあなたが舞い降りたのです。ガブリエル様」


「わたしはそんな上等なものじゃない」


「しかし、わたしに命を授けてくださったのは他ならぬあなたです」少女は言った。「わたしにはすぐにわかりました。自分の中に新たな命が芽生えたのだと。その時の喜び、感謝の気持ちはいまでも忘れようがありません」


「違う。あれは――」


 少女は聞こえなかったように、


「しかし、この島で生まれる命はすべてママのものです。ママの管理を離れた命があってはならない。ゆえにわたしは身を隠すことにしました。ヘロデの幼児虐殺から逃れたマリア様のように」少女は続ける。「ママは寛大です。たとえ、いまは氷の壁がわたしたちを隔てていようと、わたしが子を抱えて会いに行けば、母子ともども許してくださるでしょう。そう考えれば、ここでの生活も悪いものではありません。いずれ春は訪れ、種は芽吹くのですから」


「君はリンゴがなぜ実をつけるか知っているか?」


 少女は小首を傾げた。


「主のお恵みです」


「違う」わたしは首を振った。「そうじゃないんだ。リンゴは自分の子を残すために実をつける。果実には種と呼ばれるものが含まれているんだ。それは工場が完成するまでは当然のことだった。そして、それは人間も同じだった」


「マリア様のことですか?」


「マリア様に限った話じゃない。かつて人間はみな自分の腹を痛めて子供を産んでいたんだ。妊娠そのものは奇跡でもなんでもない」


「申し訳ありませんが、ガブリエル様の仰っているのが何のことだか」


「わたしは天使ではない。山羊だ」


「山羊?」


「そうだ。山羊は悪しきものだ。山羊には角がある。それがわたしだ」わたしは言った。「山羊には悪しき衝動がある。その角で羊を襲わずにはいられない。そういう邪悪な衝動だ。わたしはそれをずっと隠してきた。だが、ある日、ルームメイトに見つかってしまった。ルームメイトは何も言わなかった。わたしも彼女が特に気にはしなかったのだと思って忘れることにした。でも、そうじゃなかった」


 わたしはいったん言葉を区切った。


「彼女はわたしの角を欲した。わたしの角を受け入れると言ったんだ。それが五か月前のことだった。わたしは思わず逃げ出した。そのままだと、彼女を角で襲ってしまいそうだったからだ。長年の抑圧によって、わたしの衝動は限界まで高まっていた。そこで出くわしたのが君だった」


 わたしは続ける。


「君は痛がった。わたしは君の口を押え、角で突き続けた。わたしの角は君の血で真っ赤になった。メシア受胎だって? そんな上等なものじゃない。そのことは君が一番よくわかっているはずだ。あれは人間、いや、生物が大昔から繰り返してきた営みに過ぎない。例外があるとすれば、それこそマリア様だけだ」


「マリア様はアレを体験しなかった……?」


「そうだ。いまの君はあの記憶をなかったことにしようとしてマリア様というヴェールをかぶっているだけに過ぎない」


 少女は沈黙した。聖母の仮面の下で、少女の素顔が表に出ようともがいているように見えた。


「わたしは自分にできる範囲で責任を取るつもりだ」わたしは言った。「何ができるかはわからない。だが、君がこのことを隠し通したいというのなら協力もしよう」


「わたしにはこの子がいれば十分です」


「気が変わることもあるだろう。わたしのことはいつでも頼ってくれていい」


 わたしは踵を返した。


「お帰りになられるのですか?」


 わたしは振り向いた。


「何か言い忘れたことでも?」


 少女は口を開いた。しかし、言葉が出てこないらしい。台詞を忘れた役者のように、口をぱくぱくさせる。そして本来の台詞を諦めたかのように言った。


「いいえ」少女は首を振った。「さようなら、天使様」

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