第287話 俺は(男)友達を鎮めたい

「いてて……」

 座っていたイスがバランスを崩し、俺もタイルの上に仰向けで倒れる。間髪入れずに千鶴はその上に乗っかって、相変わらずうすら笑みを浮かべていた。

 さすがに勢いよく倒れたからか、頭はぶつけずに済んだものの肩や腰がヒリヒリとする。痛みに耐えながら起き上がろうとしても、的確に体重をかけられてまた押し倒されてしまった。

 八方塞がりってのはこういうことを言うんだろうな……。

「千鶴、頼むからそこを退いてくれ……」

 もう訴えかけるしか手段が残されていない。俺は千鶴の目を見つめながら、何度も何度もお願いした。

 その甲斐があってか、彼は少しだけ腰を浮かせてくれる。

「……そんなに退いて欲しい?」

 そう聞いてくる千鶴に、俺は首を縦に振って見せた。だが、彼は意地悪な笑みを浮かべると、再度腰を下ろし、そのまま倒れ込むように俺に体を重ねてきた。

「……」

 ダメだ、肌の触れ合う面積が広すぎて、意識しないようにするとむしろ余計に彼を感じてしまう。

「あおと……息荒いよ?」

 そう指摘されて初めて気が付いた。


 俺、千鶴相手に興奮してるのか、と。


「私なら、いつでもあおとのこと受け入れるよ?」

 耳が口の中にあるんじゃないかと思うほど、彼の声に包み込まれている感じがした。温かい吐息が耳をくすぐって、甘い声が脳を刺激する。

「俺には笹倉が……」

「笹倉にも小森にも、ここならバレないんだよ?」

 顔を背けて逃げようとしても、またすぐに耳の奥へ息を吹きかけられる。彼の発する単語ひとつひとつが、液体となって脳みそに注がれるような、そんな感覚だ。

 抗いたくても体が思うように動いてくれなくて、拒絶しようにも突き飛ばす勇気はない。気付けば千鶴の顔は耳元から正面へと移動して、真っ直ぐに俺を見つめていた。

「……」

 彼は何も言わないまま、ゆっくりと顔を近づけてくる。心做しか、唇が突き出されているように見えるが……まさか……。

「ま、待ってくれ!それはダメだろ……」

 彼は俺の唇を狙っている。ここまで来ると、その行動は一線を超えてしまった。いや、これまでに何線も超えてるんだが……まだギリギリ許容範囲だったのだ。

「減るもんじゃないし……いいでしょ?」

「心がすり減るから!減ってるから!」

 さすがに我慢の限界だと両手を持ち上げようとすると、それを察知した千鶴はすかさずそれを掴んで押さえ込まれてしまった。

 こんな見た目をしてる割に、千鶴は俺よりも力が強い。位置的にも彼が上で俺が下、押し返せるはずがなかった。

「ふふ、大丈夫。怖いのは最初だけだよ?私に身を委ねてくれればいいから」

「いや、それどっちかと言うと俺のセリフじゃ……って本当に待て、近付いてくるな!」

「そのお願い、聞いてあげない♪」

 上機嫌にそう言った千鶴が近かった顔をさらに寄せたことで、ついにお互いの鼻が触れ合ってしまう。こ、これが世に言う『ガチ恋距離』ってやつなのだろうか……。

 彼の吐いた息がそのまま俺の中に流れ込んできているような……この状況にある意味何かの一体感を感じてしまう。

「そんな顔しないで。私の初めてのキスだよ?」

「もっと別のシチュエーションなら喜べたかもな」

 俺の返しに「嬉しくないんだ……」としょんぼりする千鶴。そりゃ、100%嬉しくないかと聞かれたら頷けないが、これじゃまるで襲われてるみたいだからな……。

 いや、『みたい』じゃなくて襲われてるのか?その基準がよく分からないけど……。

「でも、してみれば案外いいかもしれないよ?お試しでどう?」

「そんなドモホル〇リンクルを勧めるみたいに言うなよ……」

「安心して、舌は使わないから」

「そこの心配はしてねぇよ!」

 使わないといいつつ、舌なめずりするのはどうしてだろう。その動きが妙に生々しくて、俺はそこから目が離せなかった……。

「あおと、覚悟を決めて」

 彼のその一言で、本当に唇を重ねてしまうのだと確信すると焦りが何倍にも膨れ上がり、俺は何とか動かせる足をバタバタと暴れさせて、精一杯の抵抗を試みた。

「ふふふ……あおと、すき……」

 目を閉じるのと同時に突き出される唇。今、この行為が完了してしまったら、俺は何かが吹っ切れてしまいそうで怖かった。

 だから必死に足を動かし、彼を止めようとしたのだが――――――――――――――。


「……ん?」

 俺は偶然にも右足の親指の先が何か固いものに触れる。これってもしかして……。

 目視は出来ないが、この予想が正しければこの状況を打破出来るかもしれない。そう思った俺は、足先に思いっきり力を込めて、その『固いもの』を力任せに下げた。

 直後、千鶴は頭から水を被ることになる。彼の背後にあるシャワーヘッドから水が吹き出したのだ。

 俺が触れた『固いもの』の正体、それはシャワーの蛇口。銭湯や温泉などでよく見るタイプのプッシュ式で、無駄遣い防止のためか一定時間しか水は出てくれない。

 だが、突然冷たい水を浴びた彼はきゅうりを見た猫のように体を跳ねさせると、タオルと共に俺の上から転がり落ちた。

 彼がいなくなったということは、残りの冷水は俺が全部浴びることになった訳だが……まあ、それは別にいいだろう。

 千鶴は文字通り頭を冷やしてくれたらしいし。

「わ、私、今何を……」

 我に返った彼は、タイルの上に突っ伏しながら、先程までの自分の行動を思い出して悶え始めた。

「私、碧斗にあんなことやこんなことを……」

「い、いや……未遂だからな?」

「あともう少しで出来たのにぃぃぃ!」

「……え、そっち?」

 こいつ、本当に正気に戻ったんだろうか。なんだかあんまり変わってないような気がする。

 俺のジト目に気がついた千鶴は、寝転んだままタオルを床に広げ、その上をコロコロと転がって体に巻き治してから、しっかりと胸元で固定して立ち上がった。

「その……さっきのは全部忘れて」

 彼は俯きがちにそう告げると、体を反転させて扉に向かって走り出す。

「風呂場で走ったら危な―――――――――」

 危ないぞ、と注意しようとした矢先、千鶴は扉の前で盛大に足を滑らせた。人間、慌てるとみんな同じようなことをするらしく、千鶴もまた、転ばないようにあわあわと足をばたつかせる。

 だが、正面には曇りガラスの扉。このままでは衝突してしま―――――――――――わなかった。

「あら、お風呂で走っては、怪我をしてしまいますよ?」

「あふ……ご、ごめんなしゃい……」

 千鶴が扉にぶつかる直前に、見計らったようなタイミングで扉が開かれ、真理亜さんが現れたのだ。千鶴は彼女の胸に受け止められたおかげで、怪我をすることは無かった。

 ……だが、真理亜さんは不思議そうに千鶴の顔を覗き込むと、彼の両頬をそっと手のひらで包み込む。

「ここの温泉はのぼせないことで有名なのですが、お客様はお顔が赤いですね……」

 突然大人の女性に顔を近づけられて動揺しているのだろう。千鶴は少しの間、恥ずかしそうに口をもごもごとさせた後、「恋にのぼせちゃったみたいですぅ……」と言ってさらに顔を赤らめた。

 ちょっと上手いこと言ってんじゃねぇよ。

「そのままでは足元がふらつくでしょう。お部屋までお連れいたします」

 真理亜さんは上品に微笑むと、自分の羽織っていたカーディガンを千鶴の肩にかけ、彼の体をひょいっと持ち上げた。

「え、ま、まって、このままは恥ずかし……」

 タオル&カーディガンスタイルの千鶴の声は、だんだん遠ざかっていき、最後には何も聞こえなくなってしまった。どうやら部屋に連れて行って貰えたみたいだ。

 俺はホッと胸を撫で下ろすと、倒れたイスを立て直し、体を洗うべく鏡に向き合う。

「……って、お前らいつから見てたんだよ」

 鏡に映る背後の景色に、こちらをじっと見つめる10の瞳があった。2人ほど鼻血が垂れそうになってる奴がいるが……。

「わ、わらひはなにもみへまへんわ!(私は何も見てませんわ!)」

「わっひもみへなひでふ!(わっちも何も見てないです!)」

 必死に鼻を押さえながら、星空を見ていましたアピールをする静香と結城。こいつら、嘘つくの下手すぎないか?

 御手洗さんも同じくそっぽを向いてはいるが、顔を真っ赤にして肩を震わせている。自分には何も聞かないでオーラがすごい……。

 逆に神代さんは、恥ずかしがる御手洗さんにキラキラした瞳で「なんだかすごかったね〜♪」なんて話しているし。

「……魅音、お前はいつから見てたんだ?」

「ふぇっ!?わ、私ですか……?」

 顔を半分お湯に浸からせてブクブクしていた彼女に聞くと、彼女は追いやられたうさぎのようにプルプルと震えながら、おそるおそるという風に答えた。


「『千鶴、俺の鼓動……感じるか?』からですぅ……」

「結構初めの方じゃねぇか!」


 ちょっと声真似しながら言うのもグサッとくるし、カッコつけてるように見えるのも心にくる。

 てか、全部見られてたってことは、俺が千鶴に押し倒されたシーンも全部ってことに……?


 待てよ。そもそも俺、あいつのこと―――――――

「ところで関ヶ谷先輩」

 ―――――『千鶴』って呼んじゃってたくないか?

「『千鶴』って、誰のことですか?」


「え、えっと……その……」

 この後、滅茶苦茶誤魔化した。

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