第274話 俺は旅館に到着したい
交渉にまとまりがついてから少しして、俺達は電車を乗り換えた。この線の終着駅である『
最寄りと言っても、そこからバスに少し揺られないといけないから、歩くには疲れるくらいの距離は離れてるけど。
車窓から見える景色は、建物よりも田んぼや畑など、自然の色が多くを占め始め、心做しか車内の空気も澄んだように感じる。
空は相変わらずいい天気だ。こういう場所だと、周りに明かりがなかったり、空気が綺麗だったりで星がよく見えると聞いたことがある。
この機会だし、柄じゃないが天体観測なんかしても楽しいかもしれないな。
そんな風に電車の旅を満喫していると、あっという間に線路の端まで到着してしまった。もう少し揺られていたい気持ちもあるが、このまま乗っていると前の駅に返されてしまうので、大人しくスーツケースと共にホームへ降りる。
「先輩っ!すごいですよ!」
魅音に肩をバシバシと叩かれて顔を上げてみた途端、俺は目の前の景色に思わず息を飲んだ。
反対側の窓を見ていたから気づかなかったが、そこには一面に海が広がっていた。少し遠くには砂浜も見える。人の手があまり入っていないからか、すごく綺麗な海だ。
「こういうの見ると、泳ぎたくなりますね♪」
「凍え死ぬぞ」
「わ、わかってますよ!」
俺のツッコミに頬を赤らめる魅音。無邪気でいいな。
「ほら、千鶴も―――――――――」
見てみろよと言おうとした瞬間、俺の口は千鶴の手によって塞がれた。そして彼は俺の耳元に口を寄せ、小声で囁いた。
「名前、あんまり呼ばないでよ。他のみんなにバレるでしょ?」
言われてみれば確かにそうだ。学校で名前で呼んだ時に、ここにいる誰かが『あれ?』となっても困る。
「じゃあ、別の名前で呼ぶか?」
「うん、そうして」
しかし、彼の言葉に頷き返してはみるものの、別の名前と言われても何と呼べばいいか分からないな。千鶴だとバレない呼び方と言えば、『ブロンドちゃん』しか思い当たらないんだが……。
「碧斗、しりとり。ちづるの『る』」
「え?あ、『る』……ルーズベルト?」
いきなりどうしたんだ?と思いながらも、何となく思いついた答えを返す。そう言えばルーズベルトって、『ローズベルト』って書くこともあるらしいな。
「『と』だから……トウモロコシ」
「『し』……し……シルク」
シルク(絹)の素である蚕の
「『く』だから……くるみかな?」
回ってきたのは『み』。そういえば最近、『み』から始まる名前のキャラクターが活躍するラノベを読んだ記憶がある。あの女の子の名前、なんだっけな……。
「――――――――――そうだ、『みらの』だ!」
「よし、それで行こう」
「……え?」
「今更だけど、私、
俺たちしかいないバスの中、未来乃 未来こと千鶴がノリノリで、通路を挟んだ向かい側に座る他の4人に自己紹介を始めた。
ミラノ ミク。確かに女の子っぽくて可愛い名前だが……漢字に直すと手抜きがバレるな。
だが、意外にも女性陣は早くもそれを受け入れ、「ミラノさん!」だとか「ミクちゃん」とか呼び始めていた。女子高生のコミュ力ってすごいな。
そんな中、御手洗さんが手を挙げて千鶴に質問をする。
「ミクちゃんさんは、関ヶ谷さんとどんな関係なんですか?」
なかなか痛いところを突いてくるな、御手洗さん。まさか千鶴のことがバレてるなんてことは……無いよな?
「碧斗との関係かぁ〜♪そうだねぇ……愛人?」
「はぁ?!」
思わず大声を出してしまった。運転手さんが何事かとミラーでこちらを
「って、ミラノ?ただの友達だよな?」
女性陣の視線がすごく痛い。グサグサと俺の後頭部を突き刺してきているのがわかる。
「ええ……2人で熱い夜を過ごしたのに……酷い!」
「そんな記憶は捏造だ!俺は断じてそんなことしてないぞ!」
いくら弁解しても、
本気で頭を抱えかけたその時、千鶴の口から小刻みに息が漏れ始めた。
「ふふふっ、なんちゃって♪」
そう言って軽く握った右手を自分の頭にコツンとあて、『てへっ♪』とかわいこぶるミラノこと千鶴。
いや、可愛い……可愛いけど……ウザイ!
「お前なぁ!」
「冗談だってバラしたんだからいいでしょ?私達、ただの友達だから♪」
「「「…………」」」
結城、魅音、御手洗さんの3人は、度の過ぎた冗談についていけず、呆れたようなホッとしたような表情を浮かべていた。残りの神代さんはと言うと。
「お兄さんに愛人なんて作れないよ〜♪」
そう言いながら大笑いしていた。なかなかに失礼だな、こいつ。いや、その通りだから何も言い返せないけど。
「だってお兄さん、いい人だもんね♪作れるような性格じゃないのは、みんなわかってると思うよ〜?」
「か、神代さぁぁぁぁん!」
俺は神代さんの優しい言葉に、思わずうるっと来て抱きついてしまった。俺と神代さんってそこまで接点がないし、本来なら警察に通報されてもおかしくない所業なんだが……。
「はい、よしよ〜し♪」
彼女は優しく俺の頭を撫でると、楽しそうに笑った。
「お兄さんは愛人と言うより、ペットだもんね♪」
「……おい」
『愛人なんて作れるような性格じゃない』ってそういうことか。俺が服従気質だと……さっきの感動を返せ。
『危ないので着席をお願いします』
運転手さんにちょっと苛立ちの混じった声で怒られてしまった。舌打ちもされた気がするのは気の所為だろうか。
しばらくして、バスは『何時草旅館前』に到着する。名前の通り、旅館の正面にあるバス停だ。
俺達はそこで降り、すぐそこの旅館の門の前で記念撮影。それから敷地内へと踏み入れた。
「さすが高級旅館、広いし綺麗だな」
「だね」
旅館までの道の両脇にある庭だけでも、風情みたいなものを感じられて、旅行に来たという感覚が一層増して胸が踊る。
建物自体も和風な
「よし、入るぞ?」
もう二度と来ることが無いかもしれない場所だからか、入るだけでも少し緊張する。いかにもな木製の扉の前まで来ると、俺は一度深呼吸をしてから取っ手である窪みに手をかけた。そして。
「失礼しま…………あれ?」
障子のように横にスライド……させようとして、俺の手は止まる。何故か扉が動かないのだ。
「碧斗、代わってみて」
千鶴にそう言われ、場所を交代してみるも、やはり扉はビクともしない。チケットの日付が今日なわけだし、休業日なはずはないんだけどな……。
どうしようかと扉の前で悩んでいると、、背後からコツコツという足音が聞こえてくる。振り返ると、下駄を履いて着物の上からカーディガンを羽織った和洋折衷な姿の綺麗な女性が、こちらに向かって歩いてきていた。
お客……じゃないよな。きっとここで働いている人だ。美しい色の着物と、その着こなしで直感的にそう判断する。
彼女は俺たちの間を抜けると扉の前に立ち、先程の俺同様に窪みに手をかけた。そして、いとも容易く扉を開いてしまったのだ。
「こちらの扉、スライド式ではなくPULL《押す》タイプでございます」
振り向きながらそう言って。
よく見たら、小さくPULLと書いてあった。それなら紛らわしいデザインにするなよ、まったく……。
ちょっと恥ずかしい思いをした俺であった。
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