第251話 俺は名前で呼びたい

 獄道さんの家に泊まった日から3日が経った。

 期末テストは明日に迫っている。そんな今日この頃、ようやく深刻な面持ちになった3人……早苗、獄道さん、南を向かい側に並べて、俺と笹倉はため息をついた。

 俺達が手にしているのは、3人に解いてもらった小テスト。もはや全てを覚えさせるのは無理と判断し、いわゆるヤマ張りをして勉強させたのだ。

 自宅でも勉強できるようにとプリントまで作った甲斐もあって、獄道さんと南は目標点である7割を突破した。

「ついにやりましたわ!」

「あはっ♪やればできる子、南ちゃん♪」

 頑張った2人にはご褒美が必要だな、なんて考えていると、獄道さんが床を這うように近づいてくる。

「お兄様、頑張った私を褒めてくださいまし♪」

「あ、ああ……」

 どうやら獄道さんは、『お兄様』と呼ばれる俺の反応を見るのを楽しんでいるらしく、2日前くらいから平然と人前でもお兄様と呼んでくるようになった。

 俺としては男のロマンというか、悪い気は全くしないのでむしろ大歓迎!と言いたいところだが、茜と葵に聞かれると冷たい視線が刺さるので、小森家内で呼ばれると少しヒヤッとしてしまう。

 あの二人にも(従妹としての)プライドがあるんだろう。最近忙しくて構ってやれないのが残念だ。

「獄道さん、よく頑張ったな」

 ちょっぴり感じる恥ずかしさを隠して、なんとか平然とそう言いきったが、獄道さんは満足していないと言わんばかりの顔で、俺の手の甲をつついてくる。どうやらオプション付きをご希望らしい。

「はいはい……。獄道さん、えらいえらい」

 その小さな頭を手のひらで撫でる。獄道さんはこれがお気に入りらしいのだ。『お兄様感が増すのですわ!』とか何とか言っていた気がする。


 しかし、人間とは現状維持の苦手な生き物である。特に、良いものを受け取れば、さらに良いものを求めてまう。彼女も現状に満足できなくなったらしかった。

「私がお兄様とお呼びしているのに、お兄様が『獄道さん』と呼ばれるのはおかしいですわ!」

 そう、この小さな生物は呼び方を変えろと申しておるのだ。まあ、そこになにか障害がある訳でもないが、いくらなんでもお兄様呼びに引っ張られすぎだろ。

「下の名前で呼べばいいのか?」

「いえすですわ!」

「なら……静香さん、か?」

「『さん』も不要ですわ!呼び捨てがいいのです!」

「じゃあ、静香」

「はいっ!」

 彼女は名前を呼ばれると、ピシッと右手を真っ直ぐ上げる。いや、挙手して欲しくて呼んだわけじゃないんだけど……。

「うふふ、関ヶ谷様に名前で呼んで頂けましたわ♪」

 まあ、満足そうだし良しとするか。


 ……と、俺はその場を切り上げようとするが、隣にいた笹倉はそれを許さなかった。彼女は俺の肩をポンポンと叩くと、振り返った俺の顔にグイッと詰め寄ってくる。

「碧斗くん、他の女の子を下の名前で呼んじゃうんだ?」

 彼女の言葉に、俺ははっと気がついた。よく考えてみれば、笹倉は初めて話した日からずっと『笹倉』なんだよな。下の名前で呼んだことが1度もないのだ。

「もしかして……嫉妬してるのか?」

「ち、違うわよ!別に私の方が他人行儀な呼び方だなぁ、なんて思ってないわよ……」

 この否定の仕方、図星ってことだよな。彼女も彼女なりにそういう所は気にしてたのか。

「じゃあ、笹倉は笹倉だな。慣れてるし、変える必要も無いだろ」

 ぷいっとそっぽをむく笹倉に、あえて冷たい言葉を投げてみる。すると、思った通り彼女は「そ、そんな……」と俺の顔を見て、それからまたそっぽを向いてしまった。

 今度は不機嫌と言うより悲しそうに見える。少し意地悪しすぎたかもしれないな。


「彩葉」


 呼ぶぞ?と前置きを入れようかとも思ったが、いきなりの彼女の反応も知りたかったので、あえて唐突に呼んでみる。

 だが、そんな俺の思考に反して、愛する人の名前を呼んだその声は震えていた。寒さでも怖さでもない、単純明快な恥ずかしさのせいで。


 これは絶対にからかわれる……と覚悟したのだが、いつまで経っても彼女からの返事は返ってこない。

 おそるおそる顔を上げてみれば、目の前の笹倉の顔も、俺同様に赤く染っていた。その瞳は涙を溜めながらも、しっかりと俺を捉えている。

「……」

「……」

 しばらく二人の間に沈黙が流れる。そして、まだ顔の熱も冷めきっていない頃、笹倉が呟くように言った。

「や、やっぱり苗字でいいかもしれないわね……」

 それに対して俺も小さく頷き。

「あ、ああ。その方が助かる……かな」

 そう返したのだった。


 あれ、名前呼びってこんなにハードル高かったっけ?




「2人とも、相変わらずラブラブだねぇ♪」

 ようやく視線を勉強三人衆に戻せるようになると、タイミングを見計らっていたように南がケタケタと笑った。

「じゃあ、私も頑張ったご褒美に、下の名前で呼んで貰いながら撫でられちゃおうかなぁ〜♪」

 ニヤニヤ顔で机から乗り出すようにこちらに頭を近づけてくる南。ご褒美なら仕方ない気もするが、なんと言っても笹倉と獄道さ……じゃなくて静香からの視線が痛い。

 2人とも『え、するの?』という無言の圧力でじわじわと俺を押し潰さんとしている。

 だが、俺が断るよりも早く、彼女の体は定位置に戻ることになった。なぜなら、その襟首を早苗が掴んで無理矢理引き戻したから。

「名前呼びは私で十分っ!幼馴染の特権なのっ!」

 いわゆる机バンバンをしながら、必死にそう訴えかける早苗。いや、特権だとか言われても、唯奈とかは元々下の名前で呼んじゃってるしな……。

「でも、名前呼びはご褒美ですわ。小森様はご褒美を受けられるだけの点数をとっていませんわよね?」

「くっ……で、でも……!」

 静香の鋭い指摘に、早苗は思わずたじろぐ。必死に反論材料を探すが、言い返す言葉が見つからないらしかった。

 そりゃそうだ、ご褒美を受けるべき2人よりも圧倒的にやばいのが早苗なのだから。むしろ罰すら与えるべきかもしれない、そう思えるくらい、彼女の小テストの結果は散々なものだった。

「小森様は名前呼び剥奪ですわ!」

 ビシィッ!と人差し指を向けられながら宣言され、口をもごもごとさせる早苗。彼女は救いを求めるように俺を見たが、残念ながら今回は味方にはなれそうもなかった。

「そうだな、剥奪でいいんじゃないか?もし本番のテストも結果が悪ければ、お前は永遠に小森だ」

 冷たく突き放し、やる気を出させる。それで彼女の成績が上がるというのなら、俺は喜んでヒールキャラを演じてやろう。そのくらいの心持ちではいるつもりだ。

「くそぉぉぉぉぉっ!シャ○クス、名前がぁっ!」

「腕だろ、原作無視すな」

 てか、そこまで落ち込むことか?……まあ、確かに早苗から『今日から関ヶ谷って呼ぶね』なんて言われたら、少なからず寂しい気持ちにはなるだろうけど。

 まあ、テストの成績さえ良ければ名前呼びは返還されるのだから、彼女には是非とも頑張っていただきたい。

 いや、正直俺も早苗って呼びたいし。10年以上そう呼んできたのだから、今更変えるというのは俺からしても難しいことなんだよ。

「安いもんだ……名前のひとつくらい……うぅ……」

 だから……頼むから早苗、某有名海賊アニメの名言に乗せて、自分の現実逃避を正当化するのだけはやめてくれ……。


 ベッドの上で枕に顔をうずめながら嗚咽を漏らす彼女を見て、俺は切実にそう願ったのだった。

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