第136話 俺は初めての補習を受けたい

 数日後の放課後。早苗には先に帰ってもらい、俺は廊下を歩いていた。何も徘徊している訳じゃないぞ?ちゃんと目的があって歩いているんだ。

 その目的というのが他ならぬ、『補習』を受けることである。そう、ついにこの日が来てしまったのだ。

 補習は普段、期末テストの1週間前から前日にかけて、毎日1教科ずつ行われるものなのだが、今回は英語教師の1人が「前もってやっておかないと英語は頭に入らない!」と言い出し、他の先生もそれに賛同したため、急遽今日になった。

 まあ、二学期の中間から期末にかけての期間は短いからな。普段から赤点ばかりの奴らなら、今からやり始めてなんとか平均点が取れるくらいだろう。

 英語というのは積み重ねが大事な科目だし、そう考えるとあの英語教師の考えも間違いじゃないなと思える。

 そんなことを考えながら歩いていると、ふと目の前に壁が現れた。おっと、目的の教室を通り過ぎてしまったか……と思ったが落ち着いて見れば、その壁はゆっくりと前へと進んでいた。

「ああ、刑部おさかべ先生ですか」

 俺の言葉に反応して振り返った巨漢。推定身長は190台後半、体重は優に100キロを超えているだろう。近くで見れば硬い壁と見まごう程の、筋肉質で分厚い体をゆっくりと動かし、彼はその高い目線から俺を見下ろした。

「やあ、関ヶ谷君」

 見た目通りの野太いおじさんボイス。一見怖い人かと思ってしまうが、こんなにも近くにいるのに、笑顔で手を振ってくれたりなんてする。

 この強面おじさんこそ、俺がいつも密かに行っているテスト範囲調査の対象である刑部先生だ。

「こんにちは、先生」

 俺が軽く会釈をすると彼は優しく笑って、手に持っていた名簿を開く。

「関ヶ谷君が補習にかかるなんて珍しいじゃないか。体調でも悪かったのか?」

 生徒の体の心配までしてくれる。見た目はともかく中身は一流の先生だ。俺も初めは怖かったが、話をする機会があってからは、なんだかんだ親しくさせてもらっている。これは俺だけが知っている事なんだが、実は体を鍛えたのは女子生徒から好かれたかったからなんだとか。それは恋愛的な意味じゃなく、頼れる先生という意味で。頼られないよりかは頼られる方がいいもんな。

 まあ、顔が怖くなってしまったせいで、むしろ避けられるようになったらしいけど。怖い先生キャラは薫先生だけで十分なんだよな。あっちも中身は普通なんだけど。

「いえ、前日に色々とありまして……」

 さすがに早苗の名前を出す気にはなれず、そう言って誤魔化してみたものの、刑部先生は何を思ったのか「青春ってやつか。若気の至りにだけはするなよ?」と言って笑った。絶対に変な勘違いをされてるな……。

「まあ、とにかく中に入れ。そろそろ補習が始まるからな」

 先生はそう言って教室の扉を開ける。中に入ると、既にいくらかの生徒が席に着いていた。その中には見慣れた顔もあって……。

「あれ、千鶴も補習なのか?」

「まあな。自主参加ってやつだ」

 まあ、そうだよな。千鶴に限って補習にかかるなんてことは無いか。少し期待したんだけど。

「お前は強制参加だろ?ぷぷっ」

 こいつ、早苗みたいにバカにしてきやがる……。何も言い返せないのがもどかしいが、とりあえず彼の隣の席に腰掛けた。

 椅子や机は普段の教室で使われているものとは少し違っていた。なんというか、少し安っぽい。4本の脚に板を乗っけただけのような机と、プラスチック製の軽い椅子。補習対象者にはこんなもんでええやろ感がすごい……。

「……って言っても、拷問器具とかはないんだな」

「教育機関だぞ、あるわけねぇだろ」

 お前はなんの教育を受けに来たんだよ、と言わんばかりの哀れんだ目を向けられてしまった。勉強をさせる場所だから、ムチくらいあってもおかしくないと思ったのだが、やはり教育上良くないのか。怖がっていた自分が馬鹿らしく思えてくるな。

「碧斗ってどっか抜けてるよな」

 千鶴が鼻と突き出した口の間にペンを挟みながら、からかうようにそう言った。

「バカにしてんのか?」

「いや、むしろ褒めてるんだよ。抜けてる割には、接してみると良い奴だし……優しいし……」

 ほんのりと頬を赤く染める千鶴。いや、ここ教室なんだけど!?そんな表情されたらまたホモだって……いや、千鶴が相手だったらそんなもんじゃ済まないな。千鶴のファンである女子達から消される。生徒名簿から消される!

「あ、ああ、褒めてくれるのは嬉しいが、周りには人もいる。あとで存分に気持ちは聞いてやるから、今はかっこいいお前でいてくれ」

「か、かっこいいだなんて……碧斗の方がカッコイイぞ?」

 こいつめんどくせぇ!何が碧斗の方がカッコイイぞ?だよ!この顔のどこがカッコイイってんだ!自分で言っておいてちょっと胸が痛いが、この程度の傷で静穏な生活が手に入るなら安いもんだ。

 チクチクとする胸を落ち着かせていると、千鶴がすっと俺の耳元に口を持ってきた。

「碧斗は普通にカッコイイよ?見た目だけじゃなくて中身もね」

 彼お得意の美少女ボイスで、優しく、耳元で。女の子を惚れさせるには、見た目よりも中身を褒める方がいいと聞いたことがあるが、もしかしたら本当なのかもしれない。だって俺、今ドキってしちゃったから。

 千鶴はそんな俺の顔をじーっと見つめ、そして堪えきれないというように吹き出した。

「ぷっ!何その顔!ときめいちゃった?」

 こ、こいつ……マジでめんどくせぇ……。やっぱり早苗と千鶴はお似合いだろ、面倒臭い同士で。

「……もう知らん!」

 俺がぷいっと顔を背け、黒板の方に向き直ると、彼は慌てたように俺に寄ってくる。

「ごめんって!冗談だからさ!」

「どう冗談なんだよ」

「えっと……顔だけじゃなくて中身もカッコイイじゃなくて、顔じゃなくて中身がカッコイイって言うべきだったとことかかな?」

「やっぱりバカにしてんじゃねぇかよ!」

 普通に顔はかっこよくないよって言われてるんじゃねぇか。自分で言うのと人に言われるのとは違う。だから、胸の痛みもチクチクからズキンズキンに変わっていた。

「それじゃ、補習を始めるぞ」

 刑部先生の声によってそんな雑念もかき消されたのだが、無事補習が終了した後の帰り道、俺はニヤニヤ顔の千鶴に連行されたのだった。

「『あとで存分に気持ちは聞いてやる』って言ってたもんね?」

 と、してやったり!と言わんばかりの表情で。


 夕日が俺を見送るように、ゆっくりと赤い屋根の陰へと沈んでいく。その揺れるオレンジの空の下に、小さな人影が見えた気がした。

 こちらをじっと見つめるその影は、千鶴が俺を引きずったまま角を曲がったことで見えなくなってしまう。ただ、その正体を確かめようとは思えず、俺はされるがままに靴のかかとをすり減らし続けていた。

「いや、いい加減歩けよ!」

 そう、千鶴に怒られるまでは。

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