第127話 俺は懐かしい人に会いたい

 木の上を見上げた俺は、思わず目を見開いた。

「さあや……?」

 疑問形なのは、昔から随分と成長していることもあるが、なにより夕日のせいで顔が見えずらくなっていたのが原因だ。

 昔よりも髪が伸びているのは分かるが、顔の大部分が確認できない。だが、消しゴムに書かれた名前と、声や呼び方までもが全て俺の記憶と一致する。

 彼女は間違いなく『さあや』だ。

 俺の全細胞がそう告げていた。

「さあやだよ♪驚いた?」

 活発な彼女は木登りが好きだった。俺も一緒に登りたいと何度も練習したが、結局今でも登れないままだ。

 そんな『さあや』は今も木に登っている。それだけで思わず頬が緩んでしまった。

「すごく驚いたよ。いつの間に帰ってきてたんだ?」

『さあや』と遊ばなくなったのは、彼女が引っ越したから。そうだったと確かに覚えている。だから、彼女がこの場所にいること自体が、驚くべきことなのだ。

「んー、どうだろ。数日前だった気もするし、もっと前だった気もする……かな!」

 どういうことだ?俺がそう聞き返すよりも先に、彼女が次の言葉を口にした。

「それより、その消しゴム!覚えてる?あおとが私に貸してくれたやつだよ♪」

 そう言えばそんなこともあったな。公園で絵を書いていた彼女が、消したいのに消しゴムを忘れたと悲しそうな顔をして……。

 俺が持っていたのを、半分にちぎって渡してあげたんだよな。

「ああ、覚えてる。俺は貸したんじゃなくて、あげたつもりだったんだけどな」

「ふふっ♪私はそれを返しに来たのです!」

 影しか見えないが、彼女はこちらをピシッと指さした。そして弾む声色で聞いてくる。

「また会ったら、それを渡してくれる?」

 その行為に意味があるのかと考えたが、人間というのは意味の無いことに意味をつけたがる生き物だ。そこには彼女なりの意味があるのだろう。

「分かった、それまで大事に持っておくよ」

 俺は彼女にも見えるように大きく頷いて見せた。

「ふふっ♪ありがとう!それじゃ……!」

『さあや』は俺がいるのとは反対側へと飛び降りると、振り返ることも無く走り去って言ってしまう。

「あ、ちょ、さあや!俺はまだ言いたいことが……」

 俺の声は彼女に届くことはなく、その背中はあっという間に見えなくなってしまった。

「……あの時のこと、謝りたかったのに」

 俺はそう独り言を零して、とぼとぼと帰路についた。



 ゆっくり歩いていたせいで、小森宅に着いた時には空にはチラホラと星が見え始めていた。

「ただいま〜」

 そう声をかけて鍵を閉める。手洗いうがいをした後、早苗がいるであろう彼女の部屋へと向かった。

 一応コンコンとノックをしてから扉を開ける。すると―――――――――――。

「おかえりっ!」

「おかえりなさい!」

 聞こえてきた声は2つあった。1つ目は早苗の、そして2つ目は……。

「笹倉!?なんでここに……」

 スーツケースらしきものを横に置いて、こちらに向かって微笑む彼女は、手に持っていたコップを机に置いて俺の方へと歩いてきた。

「だって早く会いたかったんだもの。いいでしょ?」

「いや、構わないけど……」

 やばっ……今、ドキッとしたぞ。久しぶりの彼女の生声に、思わずときめいてしまった。

「ふふっ♪ただいま、碧斗くん」

 けれど、その笑い声にどこか思うことがあって……。

「おかえり、笹倉」

 でも、その正体が掴めないまま、俺の思考は次へと移っていった。

「こんな時間に来て大丈夫なのか?もう外暗いし、帰るのも危なそうだが……」

 そうこうしている間にも、空の闇色はさらに濃くなっており、まばらだった星もその全貌をはっきりと見せ始めている。そんな時間に女の子を1人で帰らせるのは、どうも気が引けた。

「そうね……確かに少し怖いかもしれないわ」

 笹倉も窓から空を見上げつつ、そう言葉をこぼす。そう言えば、彼女は暗いのが苦手なんだった。危ない以前に1人じゃ駅に辿り着けるかどうかすら怪しい。

 ……となると、残された選択肢は。

「俺なら大丈夫だし、家まで送って―――――――」

「そうね、泊まることにしましょう」

「……え?」

 俺は思わず目をぱちくりとさせる。確かにその選択肢もあったかもしれないが、いくらなんでもそれは……。

「いや、でも明日の制服とか着替えとかは……」

「持ってきているわ!」

 笹倉はそう言って、スーツケースから綺麗にたたまれた制服を取り出して掲げる。

「あ、ああ……それなら別にいいんだけど……」

 その時、俺は察した。


 こいつ、初めから泊まる前提で来たな……と。


 早苗も渋々……というか9割イヤイヤだったが、笹倉がうまうま棒を5本をチラつかせると、快く泊まることを了承した。50円で買収される方もされる方だが、する方もする方だよな。

 少しすると、笹倉が着替えを取り出して立ち上がる。

「じゃあ、お風呂を貸してもらうわね。今日は少し汗をかいちゃって……」

「ベトナムってそんなに暑かったのか?」

「……いえ、そんなことは無いのだけれど……久しぶりに子供の頃にやっていた運動をしたからかしら。普段使わない筋肉を使って、疲れちゃったみたい」

「そうか、じゃあごゆっくり」

 俺の言葉に彼女は「ええ」と返事をして、部屋を出ていった。しかし、数秒後戻ってくると。

「ところで、サンドラはどこにいるのかしら」

 そう言って、部屋の中をキョロキョロと見回す。

「そう言えば帰ってきてから見てないな。早苗、知らないか?」

 俺の問いかけに、頭の上にハテナを浮かべる早苗。どうやら心当たりがないらしい。

「窓とかは空いてないから、外に出たことは無いと思うけど……」

「あの子、猫なのにお風呂が好きなのよ。もしかしたらそこにいるかもしれないわね」

 お風呂好きなのか……。嫌いだろうと思ってお風呂に入れなかったのだが、まさか逆だとは……。

 俺たちは笹倉のその一言を受けて、お風呂場へと向かった。部屋を出て、階段を下りて左側にある扉を開く。そこには脱衣所があり、中からはシャワーの音が聞こえていた。

「あの子、最近は自分でシャワーまで出せるようになったのよ。たまに1人でお湯を沸かしてる時もあるんだから」

「どんな教育をしたらそんなお風呂に詳しくなるんだ?」

 そこまで来るともう、猫以前にペットとしての知識量を超えている気がする。俺達はそっとお風呂場に繋がる扉に近づき、鍵が開いていることを確認してノブを握る。

 音を立てれば俺達に気づかれてしまい、逃げられたり引っかかれたりするかもしれないからだ。ほら、こっそりやってる事ってバレたくないだろ?それでバレたら恥ずかしくなって、意味もなく怒ったりするだろ?人間も猫もそこらは同じだと思うし。いや、知らんけど。

「……よし、開けるぞ」

 俺は他2人に目線を送り、深呼吸をしてから扉を開いた。

「サンド……ラ?」

 そこに居たのは、予想通り気持ちよさそうにシャワーを浴びているサンドラ…………と、湯船に浸かっている咲子さんだった。

「あら、碧斗君。昔みたいにおばさんと入りたいの?成長した体、隅々まで綺麗にしてあげよっか?」

 はいそうです、ポリスメンこちらです。幼馴染の母親のお風呂シーンを覗いたのはここにいる俺です。

「け、結構です!失礼しました!」

「ええ……洗いっこがいいってことかしら?」

「んなわけあるかい!」

 俺は勢いよく扉を閉めると、固まっている2人を放置して、全速力で早苗の部屋まで駆け戻った。そして頭から布団をかぶり、しばらくの間、寒くもないのにブルブルと震えていた。


 ……ああ、記憶を全部消したい。

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