第47話 海はやっぱり危険だ(自己責任)
8月30日、海三日目。
……結局ほとんど眠れなかった。
俺は昨晩、布団に入ってからずっとおめめパッチリだった。やっと眠れたのが日の出頃。時間にして3時間も眠れていないのだ。
おかげで疲れが全く取れていない。それどころか、余計に疲れたような気もする。
変な時間に風呂に入って、目が冴えてしまったことも原因ではあるが、やはり一番の理由は笹倉だ。
『なら、本物になる?』
『半分嘘で、半分本当よ』
この言葉が耳の中で一晩中リピートされていた。それに加えて、彼女が幼い頃、『さあや』と友達だったという事実まで知ってしまった。自分も一緒に遊んだはずなのに、俺はそれを全く覚えていない。
どうして思い出せないんだ……?どうして彼女は偽物から本物になんて言葉を口にしたんだ……?
だめだ、このままだと分からないことだらけで頭がおかしくなる……。
俺はベッドから飛び降りると、洗面所へと向かい、蛇口をひねった。冷水を手のひらに溜め、それを呆けた顔にバシャバシャとかける。
「うっ……つめてぇ……」
顎から垂れた水滴が服の中に入り、胸、腹と伝ってくる感覚にゾクッとしてしまう。だが、その感覚はすぐに消え、代わりに背中に温かいものを感じた。
「じゃあ、私が温めてあげよっか?」
「うおっ!?び、びっくりした……」
甘い声色を耳元に感じたのと、目の前の鏡に映る俺の背後に何かが見えたことに、さっきとは別の意味でゾクッとする。
「なんだ、千鶴かよ……おはよう」
振り返ると、そこには千鶴がいた。寝起きということもあり、ウイッグを装着しておらず、パジャマも胸元がだらしなくはだけている。
女装していないのに、これだけで十分に破壊力があると感じてしまった……。
「ん、おはよ♪ねえ、もっと喜んでくれてもいいんじゃない?朝からバックハグだよ?」
「喜べねぇよ!音もなく近づいてくるとか、むしろホラーじゃねぇか……はぁ……」
「……あ、碧斗、大丈夫か?」
俺の疲れの溜まった表情を見て察したのか、千鶴は女の子風ボイスとテンションをやめ、いつもの彼として心配してくれる。
「お、俺のいびきがうるさかったとか……?」
「そんなことなら耳栓でもして寝る。俺にとってはもっと深刻なことだ」
そうは言ったものの、俺のことを好きと言ってくれている千鶴に、笹倉の話をする気にはなれない。ただ、彼も薄々理解しているようで、それ以上は何も聞いてこなかった。
ただ一言、「俺に出来ることがあればなんでもするからな!碧斗に好かれたいし!」とだけ言ってくれる。本当に健気で良い奴だ。彼を見ていると、少しずつ心のHPが回復していくような気がする。
ただ、その心のオアシスとしての意味が、一学期の期末テスト前とは大きく変わっているのは確かなんだよな……。
「やっぱり友達としてしか見れないんだよな……」
俺は千鶴に聞こえないくらいの声で、そっと呟いた。
寝不足と疲労感でふらふらする俺は、千鶴に支えられながら砂浜へと向かった。女性陣は既に海でパシャパシャと水をかけあって遊んでいる。仲良さそうで何よりだ。
俺はパラソルの日陰に腰掛けると、千鶴に向かって言った。
「お前は向こうで一緒に遊んできてくれ。俺はもう少し休んだら行くから……」
「わ、わかった……。何かあったら呼んでよ?」
「ああ、りょーかい」
彼はまだ心配そうな目をしていたが、俺が仰向けに寝転ぶと、諦めて海へと駆けていった。
目を閉じれば、海の音や、楽しそうな声が聞こえてくる。風も心地よく、レジャーシート越しに伝わってくる砂浜の温もりが、俺の眠気を誘う。
良く考えれば、昨晩の悩みなんて、そこまで悩むようなものでもなかったかもしれない。笹倉だって、『半分嘘』と言っていたではないか。
実際、彼女は今も気にする素振りを見せていない。
ならば、あの言葉の意味をそこまで深刻に考える必要は、きっと俺にも無いのだろう。
その考えに至った途端、俺は無駄に張っていた体から、力が抜けるのを感じた。同時に寝不足分の眠気ものしかかってくる。
砂浜でうたた寝ってのも、日常的でいいじゃないか……気持ちよさそうだし…………。
その数秒後には、寝息を立て始めていた。
『ねえ、あおと!』
……ん?呼ばれてる……?
俺は幼い声に呼ばれ、目を覚ます。だが、周りを見渡してみるも誰もいない。
……ていうか、ここどこだ?
俺が目を覚ました場所は、眠ったはずの砂浜ではなかった。背中に触れていたのは無機質なコンクリートの上。俺はいつの間にか服を着て、その上に倒れていたのだ。
『あおと!こっちこっち!』
また幼い声に呼ばれ、声の方を振り返る。そこには、さっきまで居なかったはずの幼い少女が立っていた。俺の名前を呼びながら手招きをしている。
『さあや!』
その顔を見た瞬間に思い出した。彼女は間違いなく、幼い頃一緒に遊んでいた『さあや』だ。俺の足は無意識に彼女へと駆け出していた。
彼女の差し出す手を掴もうと、俺もまた手を伸ばす。
「……っさあや!?」
だが、その手は空気を掴んだだけで、彼女の姿はそこから消えていた。
『あおと!こっちだよー!』
今度は別の方向から呼ばれ、俺はまたそちらへと走る。そしてもう一度掴もうと腕を伸ばすも、もう少しのところで彼女は姿を消す。
「さ、さあや!なんで消えるんだよ!」
その時の俺は、なんとしてでも彼女を捕まえたい一心で、それ以外のことを気にする余裕なんてなかった。『さあや』の容姿が、幼い頃と全く変わっていないことも。走っても走っても、景色が一向に変わらないことも。追いかければ追いかけるほど、自分の体が幼くなっていっていることも。
何度目だろう。『さあや』は俺の腕をひらりとかわし、姿を消した後、俺はついに膝をついてしまった。
「はぁ……はぁ……もう、走れない……」
「あーおーとっ!」
肩で息をしながらも、力を振り絞って彼女の声のするほうを振り返る。その瞬間、俺は目を見開いた。だって――――――――――。
「アオ… 譁 ュ怜喧縺…アア…æ–‡å—化ã '…アオ……トォォォオ……!」
すぐ目の前にいた彼女は、人間だとは思えない姿をしていたから。
「ひっ……!」
俺は思わず情けない声を上げる。
こちらに向かってジリジリと歩み寄ってくる『ソレ』は、既に『さあや』の原型を留めておらず、言葉として表すなら、抽象的な闇そのもののようだった。
その形は常に変化し続け、『ソレ』が一歩進む度、周りの景色は少しずつ色を失っていく。腰を抜かして立ち上がれない俺が見つめる先には、気味悪く光る赤い眼と、カチカチと嫌な音を立て続ける、異様に鋭い牙があった。
こ、殺される……!
本能から危険信号が発せられるも、上手く体に力が入らない。
「く、来るな!」
「ア……オ……ト……」
俺の制止も聞かず、『ソレ』は俺の名前を呟きながらさらに距離を詰めてくる。そして、その鋭い牙が奇妙に光ったと思った瞬間、『ソレ』が俺へと飛びかかってきた。
「……やめろっ!」
牙が目に突き刺さりそうになる寸前、俺はレジャーシートの上で目を覚ます。その視界に映ったのは、驚いた顔をする笹倉だった。
「えっ……あ、ごめんなさい……」
彼女はどうやら、俺が風邪を引かないように上着をかけようとしてくれていたようだ。初めて聞く俺の怒鳴り声に、困惑しているらしい。
「いや、ごめん……違うんだ。悪い夢を見たみたいで……」
悪い夢。そう口にしたものの、俺はその内容を覚えていなかった。何かとてもリアルで、気持ちの悪いものだったことだけは覚えている。
「そう……かなりうなされていたものね。……大丈夫?」
心配そうな顔をする彼女に、俺は曖昧な表情をしてしまう。正直なところ、まだ体が震えていた。こんな状態では、到底大丈夫とは言えない。
彼女の後ろには、元気に遊ぶ早苗達の姿があった。俺がそちらを見ているのに気がついて、笹倉は口を開く。
「彼女達にはあなたがうなされていたこと、伝えていないわ。あなたが心配かけたくないって言うと思ったから……」
「……ありがとう」
俺は素直にお礼を言う。出来れば笹倉にも心配をかけたくなかったが、彼女のおかげで最小限で済んだわけだ。
彼女が俺のことをここまで理解してくれていることに、少し照れと嬉しさを感じつつ、思い出せそうで思い出せない夢の内容に、心のどこかで不安を感じていた。
そんな不安をかき消すためにも、俺は重い体を無理矢理起こす。
「もう大丈夫なの?無理しなくても……」
笹倉はそう言うが、今日は海最後の日だ。寝ているだけで終わらせるなんて勿体ないことはしたくない。俺は無理にでも遊ぶつもりだ。
それに、笹倉は俺が休んでいる間、ずっとそばにいてくれるだろう。それでは、俺が彼女の時間を奪ってしまうことになる。それだけは耐えられないのだ。
「沢山寝たから元気いっぱいだ!夏休み最後の思い出を作ろうぜ!」
俺はそう言って笹倉の手を掴む。心のどこかで「やっと……」と言う声が聞こえた気がしたが、俺は風の音だろうと気にしなかった。
「ええ、もちろん!碧斗くんよりも濃い思い出を残してみせるわよ!」
「なんだと!俺の方が!」
「私の方が!」
その妙な張合いのおかげで、なんだか元気が出てきた気がする。人間、ときたまの勝負事ってのは大事なんだな。
俺は海の方を眺めてふと思う。こいつらには俺の恋路を邪魔される割に、つくづく一緒にいてよかったと思わせられる。
ありがとう。なんて恥ずかしくて言えないから、代わりにいつも通りの俺を見せてやろう。そう決めた俺は、笹倉を引っ張って海へと走る。
「早苗!千鶴!待たせた――――――なっ!?」
だが、俺は気が付かなかった。海の目前、こんもりと盛り上がった砂の山に。
「どわぁぁぁぁぁ!?いってぇぇぇぇぇ!」
転ぶ寸前に手を離したおかげで、笹倉に怪我はなかったものの、俺は運悪く、海岸に落ちていた大きめの石に右スネを打ち付け、それと同時に、勢いよく地面についた左腕から嫌な音が聞こえ、しばらくの間悶え苦しむこととなった。
その後、咲子さんに連れられて救護室に向かった俺は、医者の口から衝撃のセリフを耳にすることになる。
「あー、これ骨にヒビ入ってますね」
結局、俺はその日海に入ることができず、おまけに全治1ヶ月の怪我を負うことになった。
夏休みの最後が怪我で締めくくられるなんて、最悪の展開だ……。
でも、それよりも最悪なのは、この足と腕で明後日から学校に行かないといけないことと、もうすぐ一大行事が訪れるということだった。
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