第11話 僧侶 趺喬

山道を一人の僧侶が歩いている。足取りはどこかのんびりとしている。僧侶の歩く姿を眺めるだけで、なにやらホッとするような、頼もしささえ感じる不思議な歩みだ。夏の盛りだ。深緑の葉を縫って狂ったような蝉の声が時雨のように降り注いでいる。


「そないなとこにおらんで、おりてこんか?」


唐突にその僧侶は立ち止まると、被っていた笠を少し上げて上方に向かって声をかけた。しわがれた声だが、話す言葉ものんびりとしていて相手を落ち着かせる声だった。高い木の枝に乗り、息を潜めていた朱は面食らった。その僧侶がこちらの存在に気づいていた気配を微塵も感じさせなかったからだ。


「なんでうちがここにおることがわかった?」


僧侶はニカッと歯を見せると。


「そらぁの、人の悩みを聞くのがわしの商売やさかいの。ぬしの心細いぃ心細いぃって思うとる気持ちにはどないしたって気づいてまうわ。話を聞いたるさかいおりてこいや。」


強い警戒心をあっという間に溶かされて僧侶の誘いのまま素直に宙を飛んだ朱は、飛んでから自分の行動に驚かされた。音もなく僧侶の眼の前に朱が降り立つのと同時に、僧侶は地べたにどかりと座り込んだ。


「えらい軽い身のこなしだの。ぬしは物の怪のたぐいか?」


息を吐くような気軽さで尋ねられて、


「この体になってだいぶ経つわ。」


と、素直に答えてしまう朱。僧衣が汚れるのも構わず子供のように座り込んだ僧侶に促されると、またもや操られたかのように朱も座り込んだ。


「なんじゃ、それどないした?」


朱の右前腕は中程から欠損しており、傷口は塞がっていたがピンク色に丸く盛り上がり皮膚内部を無数の触手が這い回り蠢いていた。


「今朝、山に大勢の侍が来て刀で落とされてもうた。」

「ほぅそうか。そら災難じゃったのぉ。どこの山や?」

「大江山。」

「おおぉそうか!大江の酒呑童子とはぬしの事じゃったかぁ。わしも噂に聞いたことがあるわぁ!どこぞの殿様の命で山狩りされたんやな。痛うはあらへんのか?いけるか?」

「大丈夫や。しばらくしたらまた生えてくるわ。」

「そらすごいのぉ。生えてくるならしばらく辛抱するだけやな。」


それから朱は操られるように、自分の体がなぜ今のようになったか。自分の体の特徴について。たくさんの人の命を奪い、どうやって生きてきたか。今までの事を洗いざらい話させられた。僧侶のほぅそうか。それでどうなった?ほぅそうか?そりゃすごいのぉ。という語り口に操られたような気分だった。一通りの話を聞き終えると僧侶は言い出した。


「わしはアシタカじゃ。この先の貧乏寺の坊主をしとる。名前はな。ほら、水に浮かんでスイスイ滑るように進む虫がおるやろう?わしゃあの虫が子供の頃から好きでなぁ。なんちゅうか力んでもおらんのにヒョイヒョイと自由に進むじゃろ?えらい楽そうやし、見ていてほんま気持ちよさそうや。あないな生き方人にもできれば幸せじゃろうなぁ。そう思うて坊主になる時につけた名前じゃ。色々話をきかせてもろうて思ったんじゃがの、ぬしはわしの血を吸え。腕を落とされて回復の為に、そろそろ血に狂うかもしれへんのじゃろ?わしはぬしが今までしてきたことを、悪行やとはおもわん。ぬしがそないな体になったのはぬしのせいではあらへんのやしの。生き物は殺生し、他の生命を頂いて生きるのが定めじゃ。どんな生き物かてみんなやっとることじゃ。ぬしが、人の血しか口にできひんのやったら、そら仕方ないこっちゃ。でだ。ぬしは狂うまで血を吸うのを我慢しとった言うたな?それだ。狂う前に吸えば狂わへんで済むやろ?狂わへんで吸えば命まで奪わずとも済むのちゃうか?ほら、わしの血を吸うて試してみぃ。」


目の前に無造作に突き出された趺喬の腕に、朱は面食らった。何十年も前にさよを殺してしまってから、自責の念に責められて、たった一人山の奥深くにこもり過ごしてきた。血の渇きに耐えて耐えて、それでも気がつくとまた狂って人を殺めてしまっていた。朱は人の血を吸い殺して、正気に返るたびに自分を責めた。とてつもない孤独に生きていても楽しくもないので、何度も自死を試してみたが色々やってみて死ねないのだと諦めた。そんな灰色のような時間をずっと過ごしてきたから、人と話したのも数十年ぶりだ。その久しぶりの話し相手が無邪気に腕を突き出し血を吸えという。幼い心のまま一人過ごしてきた朱には趺喬の行動が理解できなかった。躊躇する朱の頭にそっと手を乗せるとくしゃくしゃと撫でてやりながら趺喬は続けた。


「わしはなぁ、ぬしが哀れでならんのじゃ。幼い頃に家族を失い幼い心を痛めながら、たった一人で生きてきたんやろ?もしもや。今ここで狂う前に血を吸うてみて、わしが死なぬのじゃったらぬしの悩みは消えるじゃろうが?そのためなら、わしの命をかけることなんて、わけもありゃせん。ほれ、遠慮のう吸うてみぃ。ほれ。ほれ。ただの、痛いかもしれぬからそうっとな。そうっと吸え。」


洪水のように降り注ぐ狂ったような蝉の鳴き声を浴びながら、無邪気で剽軽に振る舞う趺喬に、何十年振りだかにかすかに微笑んで、朱はそっと趺喬の腕に牙を立てた。

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