第12話 朱の決意
「おおふぅ。あふぇ。おおおおぉ。」
頓狂な叫び声を上げてから、趺喬はふぅーと息を吐いて左右を見渡す。両の手を見下ろし閉じたり開いたりした後、
「ほれみぃ。死なんかったやろ?よかったのぅ。これで、ぬしも無駄に人を殺めずに生きていけるなぁ。ほんによかった。」
良かった良かったと言いながら、趺喬は脂の浮いた剃り上げた頭をつるりと撫で上げペチリと叩いた。
「しっかし。」
趺喬は一言つぶやいた後、思い返すように続けた。
「なんや、極楽を見たかと思うたわ。なんやしらんけど、気をやってしもうた。こんなん何年ぶりじゃろうかのぉ。ふんどしが濡れて気持ち悪いわ。うぉっ!ぬしがつけた牙痕がもう塞ごうとるわ。どういうことやろ。もしかしたら、ぬしは酒呑童子なんていう鬼なんかではのうて、仏様が遣わした女神なのかもしれんのぅ。いや何しろ重畳重畳。どうじゃ、よかったらわしの寺にこんか?ぬしのことを匿ってやろう。その方が無益な争いもおこらんしの。」
朱は呑気に誘ってきた趺喬の言葉も上の空に、今目の前で起こった事を反芻して考えていた。<うち確かに、このお坊さんの血を吸うたよなぁ。急にビクビクっとしたもんやから、やっぱ死んでまうんや思うたけど大丈夫みたいや。なんやろう。今まで人を殺めとうなくて、血を我慢してたから狂うてしもうて、かえって人を殺めてしまう原因になってたってことやろうか。気をやるってなんやろうな。今の所お坊さん死ぬ感じではないなぁ。笑うてはるし。>朱は初めての体験に戸惑いつつも趺喬に問うてみた。
「なぁ、お坊さん。気をやるってなん?」
「なっ」
予想外の問いかけに絶句する趺喬。
「あー。それはあれだ。んー。えー。うー。いや、ぬしには大事なことじゃな。きちんと話す。男と女がな、まぐわうと子供が出来よるんや。でな。まぐおうたときはとても気持ちようてな極楽に行ったような気分になるんや。極楽に行ったような気になるときをな、気をやるというんや。」
「そしたら朱とお坊さんはまぐおうたん?子供が出来てしまうん?」
「ば!そうやない。そうやなくてな!えーと、ぬしにの、ぬしはアケというのかの?アケにの血を吸われるととても気持ちようなるんや。それで、まぐおうてもおらんのに極楽に行ったようになるんや。」
「へぇ。そないか。ほな朱に血を吸われることは悪いことではないなぁ?」
無邪気に微笑む朱に、顔を真赤にして趺喬は、
「そや!そうやで!アケが血を吸うのんは全く悪いこっちゃない。むしろ良いことや。狂わなければ良いんやから、これからは気をつけて、狂う前に血を吸えば良いのや。なぁ、アケ。よかったのぅ。大分楽に生きられるやろ?」
ニカっと笑いかける趺喬につられて、何十年振りかに朱はえへへとぎこちない笑い声を趺喬に返した。
笑い返す朱を見ながら趺喬は立ち上がると、ほれ。と声をかけ手を差し伸べた。朱は無事な方の左手を釣られて差し出す。朱の手を取って立ち上がらせると、手を繋いだままのんびりとしたペースで二人は歩き始めた。時折趺喬は、朱を見守るように見下ろし、色々なことを問いながら歩いた。たった今血を飲んだせいだろうか、朱の腕が手首のあたりまで伸びて来ているように見える。朱の驚異的な再生力に内心驚嘆しながら、趺喬は会話を続けた。朱が家族を失うより何日か前にとても大きな地震があった事を憶えていた。
「おそらくその地震は文治の地震や。平氏が滅ぶ頃にちょうど起こったやつや。ほな、アケがその体になったのは五十年ほど前ぐらいやなぁ。そうなると、わしより目上の人やったんやなぁ(笑) それからずっと一人でおったんか?」
「そうや。さよを殺めてしまってからは、うちは何もかもが嫌になって家のあった山から離れたんや。人に会わんように山の中におったけど、やっぱり血が欲しくなるとな、正気が無うなってしもうて気がつくと人が死んどるん。うちは何度も死のうとしたんやけど、全然死ねへんかったわ。」
「そんな悲しいこと言うたらあかん!アケは全く悪くないんやで。これからはわしと暮らして、上手く生きていけるような方法を一緒に探して行こうやないか。な?右も左も分からない幼子が起こしたことには罪はないんや。な?そうしよ。な?」
あまりにも残酷で悲しい朱の独白に、趺喬は思わず膝をつくと、朱の両肩を強く掴みながら涙を浮かべ声を荒げた。今まで終始飄々として、どこか掴みどころのない趺喬であった。命をかけるとまで言いながら、気軽に腕を差し出した。人を殺めずとも生きていける事が判ると我が身の事のように喜んでくれた。その趺喬が涙まで浮かべて感情をあらわにしている。幼い心のまま、自分を責め続け多くの傷をおった朱の心であった。その傷だらけの心が、朱に強く語りかけている。朱はそんな気がした。驚異的な回復力を持つ身体の朱であったが、心は長年傷を負ったままであった。傷だらけの心は朱に言った。この男と一緒にいろと。朱は趺喬に強くうなずき返した。
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