第9話 超越した者たち

鬱蒼とした森だ。生えている木々の幹はどれも太い。月の光も遮られ、真っ暗な森だ。微かな風による木の葉擦れの音のみの静粛に混じり、ザ!ザっ!という雑音が聞こえる。一刻置いてまたザザッという音だ。断続的に聞こえる音は急速に近づいてくる。音と共に、ざわざわと揺れる枝。音源はかなりの速度で移動している。健太を抱えた朱が発している音であった。二人は夜の闇に紛れて森の中を移動してきたのだ。朱は三嶽にある小屋を目指していた。朱は健太を小脇に抱えて、驚異的な身体能力をもって、枝のしなりを効果的に使い枝から枝へ飛び移りながら移動している。朱は樹上を跳躍し移動するコツを健太に説明しながら移動していた。風切り音を身に纏いながら、一度の跳躍で十メートルほどの距離を軽々と跳躍する。重力に囚われず飛翔する少女は目に見えぬ翼を持つ天上から遣わされた白鷺のようだった。少女の小脇に抱えられた健太は、興奮して赤く染まった瞳をキラキラと輝かせながら、満面に笑みを浮かべている。このような状況を喜ばない少年はいない。


「健太よ。わしらは死なぬ身体と、人を遥かに超越した力を手に入れた。しかしそれだけではない。わかるか。五感の感度が上がっていることが。今日は月も出て居らぬし、この濃い茂みだ。普通の人間には鼻先も見えぬほどの闇だ。しかし見えるよのう?そこの葉の虫食いの穴が。判るよのう?一町先にある小川の水の匂いが。聞けるよのう?右に一里ほどのところで犬の親子が立てる寝息が。気を集中して研ぎ澄ませばもっと深く感じることもできるぞ。慣れてくれば枝の表面を見るだけで、虫食いや半枯れしていてしなりのない枝だ。と言うことも判る。そうやって経験を積めば、こんな事は訳なくできるようになるぞ」

「あけ!おれやっぱり、こうなってよかった!こりゃたまらんわ!たのしわー!」


邪気なく喜ぶ健太の笑顔を嘆息混じりに眺めたまま、ろくに前も見ず少女は跳躍を続ける。朱にとって木々を縫って宙を飛んでいくことなど造作もないことなのだ。途方もない膨大な時間のなか、たった一人で孤独と闘ってきた少女だった。なんの悩みもない呑気な健太の言いぐさに、怒りが芽生えてくる。しかし今は、この無邪気な少年が自分と過ごす相棒になった事の方が嬉しく、許してしまう朱だ。朱の心にイタズラ心が芽生えた。跳びながら横投げで、健太を宙に放り投げた。


「ほれ、健太もやってみぃ?」


いきなり宙に放り出された健太。ひゃぁーと叫び声をあげながら、みるみる近づいてくる木の幹に向け左手を突き出す。軽い健太の身体を受け止めて大きくたわむ幹。常人なら間違いなく腕か肩の骨が砕けていただろう。健太は何事もなかったかのように、間延びした声で


「あけ、まってよぉー!」


と、叫びながら幹に両足をつけて、たわんだ幹の反動を使い勢いよく跳ぶ。両手両足をばたばたと振り回しながら、着地点の調整をし健太は狙った枝に飛び乗る。健太は枝の先の細いところに着地してしまったので、途端に枝が折れてしまう。うわぁと発した健太の声に、少し楽しんでいる色が混じっている。枝が折れた音を発した刹那、健太は下部の枝の位置を確認しながら幹を軽く手で突いた。狙った枝に向かってほぼ垂直に墜ちてきた健太は、着地の衝撃で大きくたわんだ枝の反動を利用して跳ぶ。真下に向かって溜めた枝のエネルギーを受け真上に飛ぶしかない健太。両腕を激しく振り回しながら、森の茂みを突き抜けた健太は、星の明かりを背に受ける。枝から受けたエネルギーが重力に奪われ、森に向けて落ち始める間に健太は考えを巡らせた。音の情報から、少女は健太を全く意に介さず、目的の方向に移動しているようだ。それが少年の闘争心を掻き立てた。


「ちっくしょぉ!」


と、呟きながら健太は茂みに飛び込んだ。落下した先に丁度良い枝を見つけて両手でがっちり掴む。ジャッ!という摩擦音と焦げた匂い。鉄棒選手のように落下エネルギーを回転運動に変え、目的の方向に向けて跳ぶ。加減を誤り、顔面に向かってくる枝を首をすくめて避ける。無駄に振り回す手足のばたつき、目を見開き半開きの口のままの表情、スポーツ初心者の剽軽な様子をあれこれと晒していた健太だった。が、少しずつ跳躍移動のコツを掴み、次第に醸していた剽軽さも鳴りをひそめてくる。模型製作に熱中する少年の様に、口をとがらせ集中する表情を浮かべ、暗闇の森を跳躍して移動する。枝を使わず、幹を蹴り左右に跳びながらジグザグに進んでみたり、ギリギリ耐えられそうな細枝を利用して最大限のしなりを利用して跳躍してみたりと、次々と浮かぶ発想をあれこれと試しながら、健太の移動速度は飛躍的に上がっていく。自由に空間を支配し、意のままに飛び進む万能感に酔った健太は上気した顔で一層神経を研ぎ澄ましてみる。蹴った枝が立てた音が先の枝に当たって跳ね返ってくるのが判る。その音を耳にするだけで、枯れてすぐ折れてしまう枝なのか、水をしっかりと吸い上げ育った丈夫でしなる枝なのかが手に取るように判る。最大効率の跳躍移動を身につけ精神的な余裕も持てるようになった健太は、先行している朱の気配を探ってみる。 二キロほど先の小川のほとりに佇む朱の気配を捉え、健太はその方へ翔ぶ為に幹を蹴った。


湧き水がさらさらと音を立てて、小さい流れを作っている。朱は流れの瀬に佇んでいた。音もなく健太は朱の横に降り立つと無言のまま朱の横に座り込んだ。無言で二人は小川のせせらぎに身を任せた。朱は目を閉じていたが身の回りがどの様な状況であるのかが手に取るようにわかっていた。せせらぎや木の葉擦れの音がたくさんの情報を朱にもたらすのだ。朱の超感覚がそれを可能にしていた。コウモリが障害物に当たり跳ね返る、自ら発した超音波によって暗闇の洞窟を自在に飛び回るように、朱の肌に当たる音の振動が、まるで陽の下でぐるりと見渡しているかのように周りの状況を朱に知らせてくれた。健太は隣で座り込んでいた。血契三家の村から三嶽まで四十キロ余りの距離を、暗闇の中木から木へ飛び移りながらたった二時間で移動してきたにもかかわらず、朱も健太も汗ひとつかかず、息も乱れていない。朱は体の激変振りに驚いてしまった健太が消沈しているのではないかと、その事を恐れ健太の顔を見れずに居た。今更戻してくれと言われても、朱にはその術はない。じゃぁ殺してくれ。こんな呪われた体で生きる人生を終わらせてくれ。と言われてもそれも無理だ。平安の時代から今に至るまで、朱も色々な方法を試してみたが、自死することは叶わなかった。真っ赤に煮えたぎる溶岩の中に身を投げ入れれば死ぬことも可能かもしれないが、万が一それでも死ななかったら。永劫火に灼かれた痛みを味わいながら生き続けるのは、気が狂うほどの孤独に自暴自棄になったときの朱でも怖くて試せなかった。


半刻も経ち、やっと朱も口を開いた。


「全然違うじゃろ?」


優に三拍は時間を置いて健太の口が開いた。


「ぜ」


ぜ?朱は胸がキュッと締め付けられるような感覚に襲われる。


「ぜっんぜんちがう!ぜんぜん違うよあけっ!すっごいわ!なんやのこれ!すっごいわぁっ!きゃはっ!きゃははははは、きゃははっはははは」


大はしゃぎで地面を転げ回る健太。身体能力が高すぎて早送り動画のような速さだ。朱は取り越し苦労だったことにホッとした。


「これ!着替えもないんじゃぞ。もうよさんか!」


朱にたしなめられ、はしゃぐのを止めて立ち上がる健太。着物ははだけてしまい、ふんどしの横から小さなペニスがはみ出てしまっていた。


「あけ!わしなぁ!ちんちんでてたわぁ!きゃははは!」


自分がこの体になった直後はこれほど素直に喜べなかったにのう。と朱は思い返しながら、やはり男児は受け取り方も違うのじゃなぁと、幼い相棒の嬌態を目を細めて眺めるのだった。

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