第6話 家族食い(ともぐい)
少女は呆けた様に空を見上げボーッとしている父親の頬を軽く張った。とはいえ人外の力。大柄な父親が三尺ほど後ろに飛ばされのけぞり尻餅をつく。ハッと我に返った表情の父親に少女は言った。
「ぬしが与えた血の量では、健太が身体を治すためにした借金はまだ全然返し切らん。ぬしは急ぎ家に戻り肉親縁者をそうじゃのう、四人連れてこい。体力のあるものを選んでな。急げ。今の健太は死んでしまうほどの血の渇望に心を灼かれておる。ぬしがのぞんだ息子の寿命じゃ。早く救ってやれ」
異形の者に変形してしまい血への渇望にガチガチと歯鳴りを続ける牙を剥き出しにした息子でも、飢えた我が子の様子が父の正気を取り戻させた。大量の血を失ったせいで、ふらつきながらも慌てて船に乗り戻っていった。少女は漕ぎだした船上の父親に向かって叫んだ。
「ぬしらも相当体力を消耗するからのー!もし用意出来るなら、簡単な食べ物と水を持って戻ってくるが良いぞぉ!」
漕ぐ手を止めこちらに振り向きぺこりとお辞儀をした父親を見て少女は振り返る。ひもじさからか、すり切れた着物の襟首を、胸の前で交差した手で掴み座り込んでいる健太に話しかけた。さっきまで正気を失っていた健太であったが、父の生血を啜ることで余裕が生まれたのか、少女の問いかけに顔を向けた。健太の瞳からは紅い光りが消えていた。健太の喉がビクビクと動く。健太は苦労を滲ませながら声を発する事に成功した。
「の、喉が渇いてかなわんわ。血が呑みたい。からだが寒くてかなわん。わしは海神様の血を分けて貰ったのかの?わしは助かったんじゃの?お父に抱えられて船に乗った辺りから覚えておらんわ。わしはもう人間ではないのかの?」
「そうじゃ。ぬしの血にはわしの血が混じった。ぬしの身体は変わってしもうたよ。もう、人の食い物は受け付けん。ぬしが口にできるのは人の生血だけだ。大きな怪我さえせねば、月に一度啜るだけで生きて行けよう。力もとてつもなく上がって居るぞ。そして、身体は今の姿を保つ事になろう。まず死ぬ事は叶わぬぞ。ぬしは永劫その姿のまま、生きていかねばなるまい。でな。ぬしはまだ幼い。生血への飢えに抗う事がなかなか難しいと思う。わしも平静を保ち人に紛れて生きれる様になるのに、何十年か掛かった。それまでは飢えるたびに人の命を奪っておった。ぬしもわしももう人では無い。しかし心は人のままだ。わしは幼い時にこういう身体になったでの、それほど苦しまずに済んだが、ぬしはわしより少し年がいっているからの。飼っていた犬が死んだら心が痛むじゃろ?わしの時より人の心ができておるのだ。ぬしにはわしが味わった苦しみを味わわせたくない。ぬしはしばらくの間、わしと生活を共にせい。ぬしの心が育ちわしがいいと思った時、またこの地に戻ってくれば良い。わかったな?」
少女の話を聞き終え健太はこくりと頷いた。健太の小さい身体は小刻みに震えている。少女は千数百年前の自身の記憶を辿りつぶやいた。
「健太。寒いのかの?わしもこの身体になった時は、しばらく寒気が止まらなかった。月も出て居らず暗い。目印にもなるで火を焚こうかの。健太、ぬしはここで大人しく待っておれ」
生まれたての仔馬の様に震える健太は小さく頷いた。頷く健太を見守り軽く微笑んだ少女は、人間離れした跳躍力で崖肌を蹴り登り、あっという間に島の頭頂に消えていった。数分後少女は両脇に何かを抱えて、健太の元に音も無く舞い降りた。板と木の棒に、布屑とゴザに巻かれた小枝だった。少女は板に木の棒を突き立てると、両の手で挟み錐を使う要領で回しだした。常人離れした少女の力だ。高速で動く手の動きは目が追いつかないほどだ。キッキッと木が擦れ合う甲高い音が混じり数秒で煙が立ち始める。解した布屑を載せて息を吹きかけるとポッと火がついた。小枝はよく乾かして保管してあったのだろう、小さな火は簡単に小枝に燃え移りパチパチと爆ぜながら燃えだした。三十分ほど焚き火を眺めて居た少女は、ぽつぽつと独り言の様に語り始めた。
「もう、何百年前になるだろうかのう。平氏が栄えていた頃だ。わしはただの幼う女子だったのだ。父は炭焼きを生業にして居っての。家族四人で山の中で暮らしていた。あの日の夜中わしは厠に起きての。縁側から庭に下りたところで、ごぉーという音を聞いた。空を見上げると火の玉がこっちに向かって降ってくるところだった。思い返すと今でもはらわたが煮えくりかえる。わしはその火の玉に見惚れてしまった。あの頃光といえば蝋燭の火の灯りぐらいしかなかったからの。輝きというものに憧れがあったんだかのぉ。橙色に輝きながら地響きと共に目の前に落ちるまでわしはなんもせんで見惚れてしまっていた。半分寝ぼけて夢を見ているのかとも思っとった。あの時もう少しわしに知恵があったら。機転がまわったら。わしの家族は死ぬ事もなかったろう。せめてわしも家族と一緒に死んで居ったら良かったと幾万回思った事か。火の玉が落ちて、わしは吹き飛ばされた。おそらく大変な怪我を負っていたはずだ。わしは朦朧としながら、落ちた火の玉に口が開き二人の人が出てきたのを見た。二人はわしに近づいてきた。二人はこの地の者ではないようだった。顔の形がエラい違うておったからの。二人共鼻も耳も付いておらんかったの。近くまで来て、わしを見下ろし二人で何かしゃべって居った。その言葉もこの地のものではなかったの。一人がわしの手首を掴むといきなり噛みきった。わしは死ぬ程の怪我だったのだろう。痛みも感じなかったわ。その後そいつが自分の手首を噛みきって流れた血をわしの手首の傷に垂らしたんじゃ。あとは健太も知っての通りじゃ。気がついたらわしは老いもせず大怪我をしてもたちまち治ってしまう、死なぬ身体になって居った」
少女は独白の言葉を、悔しさを滲ませながら吐き出した。健太は少女の語りを聞いてはいたが、殆ど理解出来なかった。死に怯える様な飢餓感は収まり幾分正気を取り戻してはいたが、まだまだ頭の中は生血の事で一杯で少女の話を考える余裕はまだなかったのだ。健太はパチパチと音を立てて燃える炎をぼんやりと眺めていた。火を眺める事で、狂おしい程の飢餓感が少し和らぐ気がしたのだ。少女も健太も押し黙ったまま、長い時間炎を眺め続けた。
幾程の時が経っただろうか。キィキィという櫂を操る音が聞こえてきて、暗闇の中から一艘の舟が浮かび上がった。櫂を操っていたのは健太の父親だ。健太の身を案じ、精神力だけで行動していたのだろう。舟から下りた途端、貧血で倒れてしまった。舟から下りた人間は倒れた父親、母親、兄が二人、父親の弟の五人だった。少女は健太の方を強く掴むと、健太の瞳を覗き込むようにして話しかけた。
「健太。今からぬしに血を呑ませてやる。四人来てくれたからの、充分に呑めるゆえ。わしが止めたら大人しく口を離すのじゃ。よいな?」
放心状態で座り込んでいた健太だったが、血を呑ませてやると言われた途端、健太の瞳に光りが宿った。やはり強い飢餓感が残っていたのだろう。懸命にコクコクと首を縦に振る健太。少女を押しのけるようにして、我が子の身を案じる母親が健太の前に跪いて首を差し出した。健太は一言「かぁちゃん」と呟いた後、母親の首に牙を突き立てる。怪我をした子の付き添いで海神参りには何度か参加していた母だったから、何が起こるかは理解していたのだろう。誰もが我慢出来ずに立ててしまう嬌声を上げなかったのは、我が子を傷つけまいとする強い意志に寄るものだったのだろうか。それでも途切れ途切れに「あ、あぁ、あ」と声を漏らしながら、母親は短く痙攣をした。我が子に血を吸われた快感によって達してしまったのだ。少女が健太の肩を軽く叩くと健太は大人しく母親の首筋から口を離す。健太の唾液の効果で、みるみるうちに母親の首に穿たれた二つの穴は塞がっていく。母親はよろめきつつも立ち上がった。立ち上がった母親の足下には黒い染みができていた。達した時に噴いた体液だろう。少女は母親に、食事と水の準備はあるかと尋ねた。母親は竹筒に入れた水と、にぎりめしを持ってきたと答える。貧血で倒れた父親と母親に、水と食事を急いで取るように指示をした。それから少女は残りの人間の生血を健太に与えた。充分な生血を呑む事ができたのか、健太はその場で寝息を立て始めた。少女は振り向くと、五人並んでへたり込んでいる健太の家族を見下ろし「健太はもう大丈夫だ」と、微笑みながら呟いた。
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