第5話 変貌する健太

「もう一度だけ聞くぞ。ぬしらは、それで本当に良いのじゃな?取り返しはつかぬ事だぞ?」


少女の問いに何度も頭を振る父親と、弱々しく微笑み返す健太。少女はまだ踏ん切りがついていなかったようで、もう一度深くため息をついてから、改めて健太を口元まで抱え上げた。口角の片側を歪めると真っ白な牙がのぞく。少女は牙で自らの唇を噛みきった。深紅の唇に大きな紅い玉が浮かぶ。少女は抉れた健太の脇腹に紅い玉が浮かんだ唇を沈めた。数秒の後、健太は突然、ガッと目を見開いた。


「あーーーーーー!あああああああああーーーーーーー!ああああああああああああ。あひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ!ひー!ひゃー!ぎぃっ!ぎぇぃっーーーーーー!ぐぐぐっ、うぐぬがっ」


耳に触るほど甲高く、気が触れたかのような叫び声をあげ続けながら、釣りあげた魚のように少女の腕の中でビクンビクンと痙攣しながら激しく跳ねた。すでに乾き始めている血で黒く染まったふんどしの中で、健太の男根は屹立しふんどしを押し上げていた。先端には新たな染みが出来はじめている。大量に射精しているようだ。健太の発する叫び声には、嬌声も混じっている、激しい性的な快感に我を失っているのだろう。健太の余りの急変振りに慌てる父親が、勢いよく立ち上がり少女の肩を掴み、健太の無事を尋ねる。普段神と崇める少女に触れるなど、この数百年血契三家の一族の誰一人でも起こさなかった行為だ。それだけ、健太の反応は激しく、父親は心配のあまり自失したのだ。健太の脇腹の抉れた縁や、内部の組織の損傷箇所から無数のピンク色の細い触手が生えてきた。触手にはまるで意識があるかのように、活発に動き回りながら先端でチョンチョンと突きながら周辺を伺う。まるでイトミミズのようだった。無数の触手は、その一本一本に意志があるかのように動いた。触手には確かに意志があった。収まるべき所に、繋がるべき所に、造るべき形に、果たすべき機能に、それぞれの触手は身の回りの調査を、自らの先端で成し終えると、繋がるもの、収まるもの、形を作り蠕動を始めるものとして自らの形を変えていった。また、脇腹の縁から生えた触手は対岸の触手と結びつき融合し、急速に抉れた脇腹は塞がっていった。


「健太はの、すでに人の食物を受け付けない身体になった。この深い傷を癒やすために、身体のあちこちから生の活力を借りまくってる状態じゃ。傷が癒えた途端、健太は激しい空腹に見舞われる。健太に正気が戻ったら、ぬしが血を分けてやるのじゃ。それでも到底足りんだろう。わしが健太を押さえている故、急いで家族を連れてこい。五人は必要だ。人数が足りないと、血を吸われすぎて死人が出んとも限らん。わかったか?」


幾ら海神参りで何度も奇跡を目の当たりにしてきたとは言え、眼前で繰り広げられている狂ったような奇跡に我を忘れていた父親だ。いきなり語り出した少女に、コクコクと何度もうなずくのがやっとだった。ものの数分で健太の脇腹は、無数の触手が造りだした、新しい皮膚で完全に塞がれた。その後も内部組織の修復は続いているのだろう、若干萎んでいた脇腹の表面を胎児が母親の腹を蹴るかのように、所々ボコボコと隆起しながら少しずつ膨らんでくる。その頃になると、紙のようだった健太の顔色にも幾分血色が戻り、大きく肩で息をしているが、叫び声も収まり瞳を閉じて大人しくなっていた。次第に呼吸も穏やかになっていき傍目から見ると、健太はまるで寝ているようにも見えた。と、突然「かはぁっ」と息を吐き健太は目覚めた。見ると眼球は真っ赤に染まっている。虹彩と結膜は赤くぬめ光り区別がつかない。かろうじて瞳孔だけ一際濃い紅色をしていて区別がついた。ぐぁっ!がはぁっ!と叫び声を伴いながら、何かを求めるように開く口。健太の犬歯は鋭い牙に変貌しておりガチガチと歯鳴りを立て、両の口角からだらだらとおびただしい量の唾液を垂れ流している。少女は健太を岩に横たえると、両腕を自らの両膝で押さえ注意深く観察を続けた。少女には判っていたのだ。健太が自分で制御出来ないほどの激しい飢餓感に襲われる事を。やがてその瞬間がやってきた。


「おごっ!うごっ!るぐるらぁぁらぁらぁらー!ぐげぇ!ぐぎが!ぎがっ!おごぉーーーーーーーーー」


十歳そこそこの子供が出せるとは思えない野太く掠れた呻き声は地獄の鬼の叫び声か。歯をガチガチと噛み鳴らしながら、牙は、啜る血を吹き出す肌を探す。血のイメージに駆逐され健太の頭の中には一片たりとも理性は残っていなかった。


<かわくかわくかわくかわくかわぐかわぐ、のどがかわぐ。ノドガワグ。ちだちだちだちだちだぢだぢだだだ、ちをのませろのませろのまぜろまぜろ。しんでしまうしんでしまうしんでしまう。はやくのませろはやくはやぐはやぐしぬしぬぢぬぢぢぢぃ血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血血>


強烈な飢餓感と、死の予感を伴う焦燥感、赤い血、牙がのめりこむ白い肌、穿たれた穴からわき出る赤い血、それを思うさま啜り、喉を通り過ぎる紅いヌメやかな感触。千切れ千切れの生々しいイメージが次々と頭の中に渦巻いて、健太の頭の中は真っ赤な血のイメージで占められている。他の思考が入りこむ空きはない。健太は完全に血に囚われていた。目の前にナイフとグラスが置いてあったら、躊躇いなく自らの首を切り裂いて吹き出る血をグラスに注ぎ喉を鳴らして飲み干したであろう。それほどの、狂った飲血の欲求に支配されていた。健太の両の肩がメリメリと音を立てて脱臼した。少女の膝で腕を押さえられてるのを無視して身体を起こそうと、牙を立てる肌を探そうとした結果だ。大の大人でさえ肩関節の脱臼は、震えが来て立っていられないほどの痛みを伴う。しかし、健太は全く意に介そうとはしなかった。健太の思考も五感も、血への渇望で真っ赤に染まっていた。少女は健太のこめかみを片手で強く掴むと地面に強く押さえつけ、健太の耳元に唇を寄せて囁いた。


「健太よ。血が呑みたかろう。血を呑ませてやろう。血が呑みたかったら少し落ち着くが良い。私が判るか?ん?」

「ぢ?ぢぃ!ぢいのませろ!ぢぃのまぜろ!ぢぃ!ぢぃ!のまぜろぉ!」

「呑みたいなら呑ませてやる。だが、落ち着くまで呑ませんぞ。呑みたいなら落ち着け」


生血への渇望からか、健太は叫ぶのをやめ身体の動きも止めた。本能的で無意識な動きだったのか、しばらくの間ガチガチと歯鳴りは収まらなかったが、それも止み健太は大人しくなった。少女は手早く押さえていた健太を立ち上がらせると、背後に回り羽交い締めにする。紅玉色に光る双眸から紅い涙を流しながら、うわごとのように血ぃくれぇとつぶやく健太。少女は背後から健太に囁く。


「よいか。お前に血を与えるのはお前の父親だ。お前の大事な人間ぞ。お前は血が呑みとうて仕方がない状態なのは判るがの。呑みたいだけ呑んでしまえば、父は死ぬ。判るか?わしが止めろと言ったら、呑むのを止めるのだ。我慢ができるか?出来るなら血を呑ませてやる」

「ぢ?ぢぃ!ぢぃ!ぢぃ!ぢぃのまぜろ!ぢぃぢぃぢぃぢぢぢぎぃぎぃぎぎぎぎギギギギ」

「だから、落ち着けと言うとる。大人しくせんのなら、このまま血を呑まずに死ぬだけじゃ。どうする?」

「いいいいいいいいいいいゃややややややや、じぎぎぎぎじじじしにしにしにたぐない。しにたぐない。おとととととおとなななな、おとなしくしる。おとなしぐする」


自分の身体を押さえつけるだけで、相当な精神力を必要とするのだろう。健太はゴリゴリと盛大な歯ぎしり音を立てながら、小刻みにぷるぷると震え動きと叫びを抑えた。それでも口角から涎がだらだらと垂れている。少女は羽交い締めの力を少し揺るめて、健太を父親の傍らまで促した。


「いいか。もう一度言う。お前が飲み過ぎたら、お前の大事な父親は死ぬのぞ?それを重々承知の上、わしの合図で呑むのを止めよ。わしが父にすぐ他の人間も連れてこさせる故、それまで我慢するのだ。どうじゃ、できるか?」

「おおおおおおおおおおおどなしぐずる。のまぜろ。ちぃ。ちぃ。がががががががまんでぎる。がまん。がまん。ががまん。でぎる」

「よし。わしが止めろと言ったら、ぬしは血を啜るのを止めろ。よいな?」


言いながら少女は、飲血の期待にガチガチと歯鳴りする健太の口を、呆然と膝立ちしている父親の首筋に近づけていった。健太は父の喉に牙を立てる。という行為に一切の逡巡も戸惑いも見せぬまま、一刻も早く牙を突き立て血を啜ろうと、首を限界まで伸ばし、口をできうる限り開き、父親の首筋に牙を突き立てた。ぞぶりと言う音と共に健太の牙は父親の首筋に潜り込んでいく。父親に強烈な痛みと快感が同時に襲いかかり、父親の精神は真っ赤に染まる。我が子の前で自制し父親の尊厳を守る。という事もかなわず、膝立ちの腰が小刻みに震え父親は激しく射精した。健太は、やっとありつけた甘露をえぐえぐと呑み啜っていく。紅玉色に染まる健太の双眸は歓喜の光を湛えていた。そろそろ頃合いだと、少女は健太に止めろと言ったものの健太は聞く耳を持たず血を啜り続ける。少女は健太の両顎を片手で掴むと口を開かせようと強く挟み掴んだ。それでも血を啜り続ける健太。少女は掴む力を一層強める。ゴキンと金属音が鳴る。健太の顎が外れたのだ。少女は乱暴に健太を父親から引きはがす。ぞり。という音と共に父親の首筋に埋まっていた牙が引っ掻き父親の首筋の傷が広がる。血が滴る。そこまで延びるかという長さまで健太の舌は伸び父の傷からしたたる血を舐め取ろうとする。我が子に血を吸われ射精する父親に、その父親の生き血を意地汚く啜ろうとする幼い子。醜い光景を見下ろしながら少女は吐き捨てるようにつぶやいた。


「ケダモノと変わらぬ。人間の誇りなど微塵もないわ。だから死んだ方がマシだろうと言ったのだ」

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