将来

 職員室の中は汗で濡れた制服では寒いほどに冷房が効いている。休業期間であるためか普通の教室の二、三倍はありそうな部屋の中に人の数はまばらであった。

「ほら、あそこ。門脇先生は三列目の奥の角の席よ」

 白衣の先生に軽く礼をし、そそくさと教えてもらった机に向かう。そこには夏だというのに上下真っ黒な長袖、長ズボンのジャージを着た、漫画の中からそのまま出てきたような角刈りの、冗談のようにいかつい先生がどっしりと鎮座していた。進路指導の門脇先生だ。あの格好でこの冷えた部屋から出ることなどできるのだろうか。隣に竹刀でも置いてあればまさに漫画の世界だなと、そんなことを考えつつ僕はおずおずと話しかける。

「あの……」

「ん?なんだ?」

 見た目そのままの、低いドスの効いた声だ。おそらく職務質問などで、教師だといってもおよそ信じてもらえないような姿である。また、机のすぐ横に野球のバットが置いてあった。本当に漫画の世界の住人ではないかと思ってしまう。

「……水樹です 」

「水樹?ああ、あの。ちょっと待て」

 綺麗とは言い難い書類だらけの散らかった机の上を、いい加減な様子でがさがさと目的の物を探しながらも荒らしていく。

「おお、あったあった」

 目的のプリントを探し当てた門脇は自分の机の上の書類をかき分け、無理やりスペースを作った後に立ち上がり、隣の席の椅子を自分の横に引っ張ってくる。

「まあ座れや」

「………」

 僕は言われるがまま門脇の言葉に従い用意された椅子に座る。門脇が机の上に無理やり作ったスペースに置いたプリントを眺めながら確認する。

「一年三組、出席番号二十七番、水樹蒼で間違いないな?」

 僕は門脇の問いかけに無言のまま頷く。

「なんで呼ばれたかはわかってるか?」

「いえ……ちょっと、わかんないです」

 心当たりはあったものの、そのまま素直に言われたことを認めることに、なにか言い表すことのできない抵抗感を覚えたため一度否定から入ってしまう。

「はあ……」

 門脇は僕に聞こえるようなわざとらしい様子でため息をつく。

「何で呼ばれたのか分からないってことは自分でしたことが重大なことだと全然思ってないということだぞ。そういうことだから……」

「……」

 ちょっとした反抗心からわからないふりをしたことが裏目に出てしまったようであった。いきなり説教の様相を呈してきたのでなんとか強引にでも軌道修正を試みる。

「あの!それで話って?」

「ん?おお、そうだそうだ。これこれ」

 門脇はいつまでも続きそうな言葉の流れを中断し、机の上のプリントを僕の眼前に突きつけるように提示した。そこには『文理選択希望調査』と大きくプリントされていた。そのすぐ下に僕の自筆の名前も記入されている。確かに見覚えもあったし、おそらくこれだろうと思っていたものの第一候補であった。

「お前どういうことだ、これは?」

「どういうことってどういうことですか?」

 教師と生徒という関係とはいえ、いきなりお前呼ばわりをする威圧的な態度に対抗するように、僕も素直には答える気にはなれなかった。

「はあ……ほら、白紙で提出したのは学年中でお前だけだぞ」

「……そうですか」

 僕はぶっきらぼうにそう答える。確かに僕は夏休みに入る少し前に配られた文理選択の調査票を名前だけ書き、そのまま白紙で提出した。

「そうですかってお前なあ、このままだと二年に上がるときにお前が困るんだぞ?」

「いや、僕そういうのまだ決まってないので白紙で提出しました」

 お前が困る、その言葉に若干カチンときたものの、この言葉に嘘偽りはなかった。

「なんかあるだろ?将来なりたいものとか、いま興味があるものとか。そんなちょっとしたことでいいんだよ」

 僕は今の一言に心底失望していた。『将来』。僕は、この言葉が曖昧で使い勝手のいい大人が子供を押さえつけるための常套句であると感じていた。未来の具体的ないつ、ということを固定化せずに、無垢な子供に対して未来の自分はどうありたいかを問うための大人だけの都合のいい言葉ではないか。そして、自分のなりたいものがまだうまく表現できない人も多い、高校一年というまだ未熟な僕たちにいきなり文理選択という未来の人生の岐路になってもおかしくない二択を設けるのは早すぎる。この選択如何では、まだ全く具体化することができていない僕の未来の選択肢の大部分がおのずと限られてしまうといっても過言ではない。だから僕はこの悪魔の問いかけに白紙という自分の考える最善手で対抗したのである。にもかかわらず、こうして夏休みにわざわざ呼び出されて、説教じみた言葉をぶつけられている。

「うーん、例えば本が好きとか、英語とか数学とかが得意とか、科学の実験が面白そうとかそんなんでもいいんだぞ。なんか思い当たるようなことないか?」

 そんなあいまいなことで人の一生を決めかねない選択を迫るなんてやはり大人というのはずるい、僕は内心そう思っていた。そしてそんな不満を押し殺し、いたって何も感じていないかのように答える。

「いや……ないです」

「うーん…」

 とうとう門脇もうなり声をあげた後に黙り込んでしまった。二人の間に言葉を切り出しにくい沈黙が訪れる。さっさとこの冷房の効きすぎた部屋から出たい、僕は先ほどまでのくだらない問答など意にも介さずそんなことばかり考えていた。しばらくの後門脇が先ほどとはまた違った様子で切り出した。

「まあとりあえず先生もこれからちょっと外せない会議があるから。この紙、夏休み中にはちゃんとどっちか選んで記入して先生の机の上に置いとけよ」

 会話を切り上げるための言葉だったことに思わず小躍りしそうになったがぐっと堪え、

「わかりました」

 僕はそう淡泊な言葉だけを返した。

「よし、じゃあ今日は帰っていいぞ。お疲れさん」

 僕は門脇からプリントを奪うように取り、足早に出口に向かう。職員室の扉が内側からは僕にはとても神々しくありがたいものに見える。しかし、それは真実でもあったが同時に幻想であった。いざ天門ともいうべき扉を開けた途端に、僕の体を蝕むような熱波が襲う。さきほどまでとの温度差で体調を崩してしまいそうなほどである。どこかちょうどいい温度の部屋で体を慣らしてからではないと、帰りは下り坂で楽だとは言っても雲一つない炎天下を自転車で三十分近くこぐのは無謀だ。そう考えた僕は体を休めることのできる場所を探すべく薄暗い、もう蝉の声しか聞こえなくなった廊下を当てもなく歩き始めた。

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