鬼門
ところで、なぜ部活にも入っていない僕が夏休み中の学校に呼び出しを受けたのか。改めて考えてみると、僕には二、三の心当たりがないでもない。おそらくあれだろうと胸の内であたりをつけ、僕は屋根のない、ジリジリと炎天下の日差しが差し込む駐輪場から、窓から差し込む日差し以外に光源などない、薄暗く、それでいて涼しさなど微塵も感じさせない校舎に急いで駆け込んだ。
校舎の中は日差しがない分、外よりは幾分かマシであったがそれでも額からにじむ汗が止まることはない。もうすでにだいぶ湿って着心地が悪い制服の袖で、なお汗をぬぐいながらも目的の職員室を目指して歩を進める。その間誰ともすれ違うことなどなかった。日常の喧騒と打って変わり、長い廊下には誰の声も響かない。そもそもこの学校は田舎の小高い丘の上に建てられている。そのため、車のクラクションや電車の走る音、昼間から騒ぎ散らす無遠慮な人の声など届くはずがない。耳に届くのは、いつまでも続く蝉の声と曇った楽器の音、遠くグラウンドから響く掛け声、そして自分の足音だけであった。
職員室までの道の半ば、偶然廊下の、明るい光が差し込んでいる窓からグラウンドを一望できる場所を見つけた。立ち止まって眺めてみると野球部とサッカー部が、ちょうど楕円形のグラウンドを横に輪切りにするように半分ずつに分け、練習に励んでいるのが見えた。お互いに練習するのに十分な広さを確保できているとは到底思えないほど、グラウンドのそれ自体は狭いものである。僕にはそれが大変に非効率なことをしているのではないかと思えて仕方がなかった。ピッタリ半分こにするのではどちらも窮屈を感じ、中途半端な練習しかできない。それならばいっそ、練習の日を二つの部で一日ずつずらして、グラウンドの使用日と自主練習の日を交互に交代しながら行えばいいのではないかと思う。そんなことを考えているとまた職員室に行くのが遅れてしまう。そう考えなおし、僕はまた薄暗い廊下を歩き出した。
職員室が見えるまでは特に何も感じるようなことはなかったのだが、いざ職員室の扉の前に立つと、得体のしれない緊張感が僕の体にまとわりついた。たかだかただの鈍色のプラスチックにガラスがはめ込んであるだけのただの薄い扉である。しかしその頭に「職員室の」という枕詞が付くだけでその意味は多くの生徒にとって大きく変貌を遂げる。もちろん、そんなものを気にすることもない通い慣れた生徒もいるだろう。それが真面目な理由からなのか、不真面目な理由によるものかはこの際省くしよう。しかし、少なくとも僕にとってはこの「職員室の」扉は、僕に十分すぎるほどの威圧感を与え近寄りがたい雰囲気を醸し出していた。
一気呵成に扉に突撃してしまえるほどの勇気は僕にはなかった。入ってしまえば何てことなかった、と思うことは頭では理解していても、それをいざ実行に移すとなるといつもしり込みしてしまうのである。職員室の前には生徒が勉強でわからないところがあると、職員室まで来て先生に質問し、その場すぐに直接教えてもらえるようにと勉強用のスペースが四つほど仕切りで区切られ設置されていた。その仕切りは地域の行事や、生徒への連絡用の掲示板としての役割も担っているようで、毎年恒例の花火大会のお知らせや夏休みの間の朝のゴミ拾いボランティアの募集、それにとっくに期限が切れている提出物の催促状や、これまた期限切れの留学の案内など様々な掲示物が所狭しとひしめき合うようにして壁に並んでいる。そんな掲示物を、なにか状況が変わるような出来事が起こらないかと、無意味な期待を込めつつゆっくりと眺めることが、その場で僕にできた最大限のことであった。
そのまま何も起こることなく、掲示物を一通り見終えてしまう。一枚の壁のプリントを見終わるたびに、次の一枚を見終わったら中に入るんだ、そんなことを繰り返していると、とうとう終わりまで来てしまったのだ。ちらと「職員室の」扉の方に目をやる。しかし、そこには来た時と何ら変わることのない威圧感を誇るそれが鎮座している。すこしの間逡巡した後に、やはり自分の中で心を奮い立たせることができず一度見終えたはずの壁をもう一度最初から見直し始める。当然先ほどゆっくりと時間をかけて見終えたばかりの物ばかりである。ほとんど内容は覚えてしまっていたので、一度目よりもかなり短い時間で壁一面すべての掲示物を読み終えてしまうことができてしまった。一度目よりも短い時間で、僕の中の決意が固まるはずなどないのにも関わらず。
「どうしたの?」
渡りに船とはまさにこのことであった。白衣を着た優しそうな雰囲気の女の先生が、職員室の前を夏休みだというのに制服で不自然にうろつく僕に、職員室の中から扉を開け、声をかけてくれたのだった。
「誰か先生に用事?」
「ええと…門脇先生に呼ばれてて……」
「門脇先生?中にいらっしゃるわよ。ほらおいで」
白衣の先生に導かれるまま僕は、何とかすべての元凶である、あの鬼門をくぐることに成功したのだった。
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