第5話 エビス2
その後、記憶にはないがアタシ達は部屋に戻っていた。アパートのダイニングにゴロリとBGとスグルが倒れている。アタシは椅子にもたれる格好で寝ていた。カーテンの隙間から日が差している。
―あの騒ぎは夢だったか?
でも、体中に残る焼肉の匂いと寄せて上げた胸元で、昨夜の出来事が真実だと知る。溜息をつき、アタシは自室へ消えた。
シャワーを浴び、ラフな格好に着替えて戻ってくると、何も変わらない二人がいた。アタシは椅子に座り、しばらく二人を見つめる。
妙に静かで、チクチクとした時計の秒針だけが気になった。止む事も無く鳴り続ける秒針の音を聞いていると、何か、こう、体中を掻き毟りたくなる衝動に駆られた。アタシは外に出た。外は良く晴れていて、既に日差しが強い。きっと残暑厳しい一日になる。それは昨日と同じような暑い夏の一日の始まりで、明日も同様の暑さを予感させる。何も変わらない暑さが続くようだが、いつの間にか夏は終わる。そうだ、もうすぐ夏は終わるだろう。けれど、アタシは何も変わらない。時間や季節だけが過ぎていく。
アタシは黙々と歩き、駅に着いた。多くの人があわただしく行きかう姿を商店街の端にある自販機にもたれて眺める。アタシを置いていくのは季節だけで無い。この世界にポツンと取り残された気分がとても寂しかった。
「何してんや」
声に振り替える。エビスがいた。昨夜の痕跡が全く見れない、かっちりとしたスーツ姿だ。
「やべっつ、エビスだ」
アタシはあわてて身構えた。
「まてまて、何もせえへんがな。俺の相手はBGや。姉さんじゃあ無い」
自販機にコインを入れ、ゴトリ、ゴトリとコーヒーを買った。
「これやるな。飲んでな」
そう言って、『甘くないオレ』をくれた。缶からの冷たい感触が気持ちいい。カコンとプルタブを開け、アタシは冷たいコーヒーを飲んだ。甘くはないが、冷たくて優しい味がした。
「ありがと」
アタシは素直にお礼を言った。今のエビスはウソツキ新聞の暴漢アニキとは思えない。
「BGは姉さんのアパートだろ。あの、ゴツイ兄ちゃんと一緒に」
エビスの言葉に無言のアタシ。
「いいんや、隠さなんでもわかる。俺、エビスやからな」
エビスも缶コーヒーを飲む。
「姉さん。俺の事、なんて聞いた?」
「エブリバディ・ハッピー・プレゼント・サービスの社員」
「そうや。他には?」
「危ない会社の一員で、BGを捕まえると出世する」
「…他には?」
「無い」
少し、間が空いた。アタシは缶に口をつける。
「BGの事、どのくらい知ってん?」
「エブリバディ・ハッピー・プレゼント・サービスの社員。エビスから逃げている貧乏人。昨日、パチンコで大勝ちしたから、今は貧乏でないかもしれない」
「他には?」
「無い」
「そうか」
エビスは缶を捨てた。自販機の脇に小さなゴミ箱がある。
「姉さん。『送窮の儀式』って、知ってるか?」
「知らない」
アタシはそっけなく答える。多分、地域限定の成人式みたいなものだろう。
「知りたいか?」
「別に」
「そやな。姉さんにはどうでもいい事やな」
エビスが言った。
「だがな、この儀式にはBGが必要なんや」
「ふーん」
礼儀程度の相槌をアタシはする。
「あのな、姉さん。どんなに自分が“迷い道”していても、何も心配いらん」
エビスの言葉にアタシははっとした。エビスは駅に流れ込む人波を眺めている。駅はまだまだ人の波が絶えない。
「姉さん。あの人たちを見てどう思う?自分より優れている。幸せだと思う?」
「何で、そんなこと聞くの?」
アタシはエビスに聞いた。何だか、心の中を見られた気分がする。
「姉さん。じゃあなんであの人たち見ていた?ド突いたろとか思ってたん?」
「違うけど」
「姉さんは屈折した女子やなあ…」
―余計な御世話だ。
エビスの言葉にムッとする。エビスは先を続けた。
「ちょっと黙って聞いていてな。とても姉さんの為になる話やからな。人間は腹いっぱいになる量はひとりひとり違うねん。胃袋のデカさが違うんからな。それは分かるやろ」
「あたりまえじゃん」
「人はひとりひとり違うねん。生き方、育ち方、考え方、その他なんでも」
「そんなの知ってるよ」
「知ってるんか?すごいな~。昔の坊さん、エラク修業したんやで。この事を知るまでになあ」
エビスは視線をそらさず、じっと人波を見つめる。
「見てみい。たくさんの人がいるやないか。外見はみんな同じカッコに見えるから、良く分らんけど、中身、心ン中は大違いや。ああなりたくて頑張った奴。なりたくなかったけど、なってしまった奴。何も考えずやっている奴。あの中にはそんな連中が間違いなくいるんや。そう思わんか?」
「うん。いると思う」
「おもろい事に、望んだやつより、望まん奴の方が仕事ができたり、なんも考えん奴の方が給料いい事もある」
「大いにね」
「でもな、どっちが幸せか分かるか?」
「知らない」
「姉さんだったらどうや?」
「給料がいい方かな」
「そうかー。金を持っていると気分がいいからな」
エビスは一瞬、黙りこむ。
「でも、それは姉さんの本心で無いな。姉さんは時給900円に満たないバイトを何年も続けているんやからな」
「でも、何度も辞めようと思った。もっとラクに稼いで、成り上がりたいと何度も考えたよ」
「姉さん。成り上がるって何?」
銀縁眼鏡を通してエビスがアタシを覗きこむ。
「他人から指図されないで、楽しく、毎日を暮らす事」
「わからん。具体的に言ってくれ」
エビスの言葉はアタシをとても動揺させた。“具体的”になんてアタシにも説明が出来ない。だって、“具体的”に考えてみた事すら無かったからだ。
「アタシは馬鹿にされたりしないで楽しく生きて生きたいの。その為にはお金が必要でしょ。お金があったら、馬鹿にされたりしないもん」
アタシの精一杯の答えに、エビスがまた少し沈黙した。
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