第2話 BG

19歳の真夏、アタシはある男に出会った。出会いの夜、アタシは汗まみれになりながら、その男を引きずったことを覚えている。ネクタイをつかみ進む一歩一歩の度に、足元のアスファルトがぐにゃりぐにゃりと絡みつく。

「まだか…」

クーラーの無い我が家はまだまだ遠い。息が切れる度に、あのカンカンと鳴る外付けの階段が恋しくなる。アタシは取りつかれたように「エンヤ、コラヤ」と、拾った男を引っ張り回した。

拾ったゴミの男は何故かスーツを着ている。夏を、というか、季節そのモノを拒否しているのかと思われる程、暑苦しい。でも、ネクタイは便利だ。手に巻く事が出来てちょうどよい。アタシはすり抜けないようネクタイを掴み、ズルズルと引っぱっていった。

そんな家路でアタシは何度もスグルを思った。こんな時には特に傍にいてほしいアタシの大切な相棒。筋肉質でゴリラ並のパワーを持った気持ちのやさしい女男のスグルは、今夜はバイトで戻ってこない。

アタシはやっとの思いでアパートにたどり着く。あれほど恋しかった階段が、今は憎らしい障害としてアタシの目に映った。アタシはよっこらよっこら、最後の障害を越える。急な階段が男の体のいたるところに食い込み、この試練を一層過酷なものに変えた。


やっと着いた自宅はおんぼろアパート2階で、スグルとアタシには暖かすぎる部屋だ。鍵を開け部屋に入った。熱が籠る部屋にはスグルの姿は無く、やはり、まだバイトから帰って来ては居なかった。

アタシは投げるように男をDKに倒した。換気の為、窓を開ける。玄関脇の靴箱からヒールのあるサンダルとビンタにぴったりのゴムサンを取り出す。これらは護身用として、男の狼藉に備えて手元に置いた。男の身元を確認するまで迂闊なことはしない。いや、させないつもりだ。

開けた窓からゆるゆると風が入ってくる。何処からか風鈴の音も聞こえる。涼しげで少しさびしげな音色にアタシは耳をすませた。ふと、耳にかすかなうめき声が届く。

―世間はお愉しみの時間か。

アタシとは無関係に育まれる愛に多少の怒りを感じる。と、その声が足元から聞こえる事に気が付いた。男はいつの頃からか「メシ、メシ…」ってぴくぴく痙攣を始めていたのだ。

―めし?そうかメシか…。

アタシは空腹を覚えた。



緊急事態に備えての食材、非常食カップラーメンを取り出した。ラーメンのカップにはでっかく『BEN』の文字がある。入手の過程はともかく、このようにしておけばラーメンに限らず、どんなモノでも所有者は完全にアタシになる。繰り返すが、入手の過程はともかく、名前を書いて、今や完全にアタシの所有物になったラーメンを提供するのだ。相応の見返りの要求は当然である。

さて、アタシはヤカンを火にかけた。窓から入る生暖かい風が、コンロの熱でますます熱くなって部屋を暑くする。暑い部屋の中では湯はすぐに沸いた。ラーメンの蓋を半分ほど開け、アツアツの湯を注ぐ。生暖かな風はひくひくする匂いと変わり部屋の中に漂いはじめた。匂いが広がるにつれ、ぴくぴく痙攣が小刻みなリズムに変わっていく男の体。

3分程過ぎた頃、男の震えは、ぶるぶるぶるぶるうううううううう……と、痙攣というより、大人のアイテム並の激しいブルブルに変わってしまった。

―ヤバイ!いっちゃう!

アタシはまたまた逃げ腰になった。本人にとっては“いく”のも、“イク”のも共に昇天だけど、観ている側には大違い。気まずさが違う。

その時、ムクリと黒い塊が起き上った。起き上ったのは。もちろん男で、グルーッと無表情な顔を一周させたかと思うと、ガバーっと口を大きく開けた。まるでいっこく堂のカンちゃんだ。そして、ビシッってラーメンを見据えると、素早くひっつかみ、ガバガバ飲み始めたのだ。大食い大食漢の「カレーは飲み物」って言葉を思い出す。そして、飲み物がカレーだけで無い事を知った。少しだけ知識の世界が広がったアタシは呆気にとられながらも男の行為を見つめる。

「じゅる」

最後の音をたてた男がアタシを見つめた。眼は輝き、意識はしっかりと戻った様だ。アタシは半人魚となり、相手からの言葉を待つ。

「お代わり」

その瞬間、アタシは護身用のサンダルを男の額に叩きこんだ。その結果、男は再び眼の輝きを失い、アタシは再三、逃げ腰になった。


明け方になってスグルが帰って来たらしい。らしいのというのはアタシは部屋の鍵をしっかりと掛け、爆睡していたから気がつかなかったのだ。そして、スグルはショッキングな出会いをした。

その場にはいなくて済んだ事は、まあ、ラッキーだったのだろうけど、未知の人間を鎖にも繋がずにおいた事にアタシの責任だ。ほんのちょっぴり無神経だったかもしれない。とにかく、スグルと男の出会いはショッキングで、帰ってきたスグルが物音に気付き、何気なくトイレを開けた。すると、そこには、尻を出して立っている男がいた。穴に向かいすかさず蹴りを入れたスグル。

「反射神経もさすがだね」

アタシの褒め言葉に、

「鍛錬の賜物」

と、スグルは素気ない一言で答えた。汚い穴を見せられた恨みは深く、スグルはまだ怒っていた。スグルが語った怒りの大半はノーマルの少女には未知の事情で、明確には理解出来なかった。その為、上手に説明も出来ない。アタシに出来る事は聞いた状況を明確に表現するだけだ。

『その瞬間、毎日、激しいトレーニングで鍛えられたスグルの右足はしっかりと板張りの床を握り、蹴りだされた左足の踵は正確に、しかも強烈にターゲットホールを捉えた。結果、剥き出しの男ホールは象をも倒す蹴りをモロに喰らう事となった。

場所は狭い個室。

男は放出中。

放出の最中は、他の行動をとるのが難しいとの事(これも未知)。

以上の3条件が重なった結果、男は見事にひっくり返り、ポールの先端から黄金色の液体を放ち、輝く水芸を披露した…』

以上の訳で、彼らの出会いを全く知らないアタシがともそもそ起きだしたとき、部屋の中には妙なオーラが漂っていた。

―妙に静かね…

アタシは富士の樹海で迷子になった時に感じた静けさを思い出す。

―ラップ音、したかな?

あらゆる事に迷い続けるアタシは年のわりに人生経験が豊富だ。恐怖体験、修羅場体験、男女の泥沼戦線など、戦歴は数多い。いくつかここで紹介する事は構わないけど、まあ、次の機会にしておこう。

とにかくアタシは張り詰めた空気の中、カーテンを通す薄明かりに照らされた部屋の中に、見つめ合い、石像のように固まった二人を発見したのだ。


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