いつかの夢
──ああ、久しぶりの夢だ、と思った。
数え切れない程に見た、咲乃の人生の最大の転機。少女にとって最大の悪夢であり、心の奥底にびっしりと根をはって離れない行動原理。
目が覚めれば朧気にしか思い出せないくせに、夢では感覚まで鮮明になる。あの時の匂い、悪寒、音、恐怖……その全てが鮮やかに蘇る。
時は十一年前。咲乃が四歳の時のことだ。
そんな小さいときの出来事を、はっきりと覚えているのが普通なわけがない。実際、起きているときは思い出せないのだから。
だが、夢では嫌なくらいはっきりとするのだ。まるで忘れさせないようにしているかのように、夢の景色は派手な真紅に染め上げられる。
咲乃が生まれた、秘境と言っても差し支えない程に山奥の神社が襲われた。
尤も、咲乃はその時、離れの床下に隠されていたおかげで怪我一つ負っていない。襲撃者に見られるどころか、気取られてすらいなかったはずだ。
真っ暗な狭い空間、遠くから鈍く聞こえる木が燃え盛る音と怒声、木枠のすき間を抜ける風の音と土の匂い。それに耐えきれなくなった咲乃が目を閉じると、ぼんやりと脳裏に映像が映った。
その映像は、今まさに燃え盛る神社の本殿の前。業火と煙を噴き上げる社と壊された賽銭箱を背に立つ一人の男と、それを少し離れて取り囲む八人の黒装束。その九名が繰り広げる怒鳴り合いが、なぜか聞こえた。
「キサマ、何故奴らを殺した……!」
「殺さねばならない事情があった。確かにあの二人は強い。巫女と宮司とは思えないほどに。だが、それでも結果が変わらないのであれば仕方あるまい」
囲まれている男が問いにそう返した。見えるイメージでは、炎のせいで逆光になっていて男の容貌は分からない。でも、元々は黒装束の仲間かもしれない、と咲乃は思う。どうして仲間割れをしているのかは、全く分からないけど。
この映像に出ている人たちが、咲乃の悲願。
人生をかけて討つと決めた人たち──すなわち、神社襲撃を指示した者と、実際に両親を斬った人。この二名を探し出すために、歳に似合わない旅を始めたのだ。悲しいことに、この映像では個々人の姿がはっきりと見えないのだが。
囲まれていた男が言葉を続ける。
「俺の本意ではない。だが、頼まれたのだから仕方ないだろう」
「狂っていやがる……!」
「お前らに言われたくはないな」
男の言い草に苛立ったのか、囲んでいた一人が短刀を構えて突撃した。だが、ほとんど重心を動かさないで繰り出された蹴りが、的確に突進した黒装束の顎を蹴り上げて昏倒させる。囲んでいた位置より遠くまで飛ばされた黒装束は動く気配がない。
その様子を見て言葉をかけるのを諦めたのか、残っている七人がそれぞれの術を行使する。
式符から生み出された獣が、風切り音を立てる鎖鎌が、無数の暗器が、一人の男に向けられた。だが、それでも男は小動すらせずに黒装束を睥睨している。
ジリジリと間合いを取ったにらみ合いが続き、男が武器を強く握りこんだ瞬間に全員が一斉にとびかかった。
武器を弾き、胴体を蹴り、浅く斬られ、近づく相手を吹き飛ばす。
鬼神のごとき戦いぶりを見せる男が三人目を吹き飛ばし、そこでゆっくりと映像が歪んでいった。
いつも夢はここまで。
これより前も、後も、見ることはできない。ゆっくりと微睡みが覚めていくことに身を任せる事しかできないということを、咲乃はよく知っている。見える景色が完全に消える前に、燃え盛る本殿のすき間から並んで横たわる男女の姿が見えることも、知っている。
その二人に思いを馳せる間もなく、夢が途切れて。
瞼をそっと開ける。
窓のすき間、薄い蚊帳を貫いた朝日が咲乃の視界を一瞬埋め尽くす。寝ぼけ眼を擦り……というにはあまりにも寝た感じがしない。むしろ意識は、爽快感が無いだけではっきりしている方だ。
それでも咲乃は目元を浴衣の袖で擦る。昨日あれだけ寂しくないとか心の中で騒いでおいて、悪夢を見ましたとは言えない。
いつもの悪夢、その最後に見える横たわった二人。白装束に一文字の赤を走らせて仲良く倒れ伏す姿を何とか思い出そうと奮闘しても、その像はどんどんピンボケしていくだけだ。思い出したいのに思い出せない、霞のように不確かで、指のすき間から零れるように消えていく。
上体だけを起こして、目を閉じて集中しても一向にその消滅は止まらない。
数分もする頃には諦めて、伸びをしていた。
「んん~っ! っはぁ……」
気持ちよく脱力してから完全に起き上がる。
昨日の宿とは違う、城の客間ともなればかなり広かった。何も置かれていない場所だけで十二畳はありそうな部屋を見渡して、案の定寝ているトクさんの姿を見て頬を緩める。咲乃にとっての安心の証明、日常の象徴は今日もお寝坊さんだった。
完全に意識を切り替えて、
心地よい冷水を浴びて、髪を整えて、布団を片してからトクさんの肩を揺らす。
「起きてー、朝だよー」
目を覚ましたトクさんがいつものように空咳を一つ。
ゆっくりと上体を持ち上げて、少しだけ頭に手を添えて。
「おはよう、咲乃」
「おはようっ!」
また今日も頑張れそうだ、と思うのだった。
◇ ◇ ◇
その後はいつも通り。準備をして、一日の大体の動きを確認して、朝ごはんを食べに行く。
昨日までとは違って、今日は初のお城のご飯だ。宿で出てきたご飯と比べて、明らかにかかっている手間と食材の価値が違うのが分かる。まあ、咲乃はどちらの味も好きなのだが。
少し多く感じる城の物より宿のご飯の方が好きかもしれない。
ちなみにご飯を食べているのは、城の中で働く人用の食堂だ。二十メートルくらいの長椅子が三つも置かれた大食堂で、それぞれが思い思いに食事をしている。近習から警吏、中には大工らしきおっちゃんたちがいる事からすると、あまり身分とかは気にしてはいけない場所なのだろう。
実際傍から見れば、人相が悪めのトクさんと巫女の少女が隣り合って座っているここが一番色物なのだし。何にも言われないどころか不躾な視線すら来ないことに、桔梗様に信用があるんだろうな、と思うのだった。
そんなことを思いつつ辺りを見渡す咲乃の隣に、源治さんと宗司さんがお盆を持ってきた。
「隣、よろしいです?」
「どうぞ!」
トクさんは我関せず、咲乃が断るはずもない。それでもその返答に安堵したらしい二人がお盆を机に置いて席に着く。順番としては、右から順にトクさん、咲乃、宗司、源治という感じ。
宗司の皿をちらりと覗き込むと、色とりどりに盛り付けられた小鉢が目立つ。一つ奥の席の源治は反対に細かな肉類があるようだ。役職ごとに分かれているのかもしれない。
「厨房のばあやの気遣いですよ。その人ごとに盛り付けや内容を変えているんです」
心の中を見透かしたかのような宗司の言葉に、思わず肩を跳ね上げた。
「この後はまた色々とやっていただかねばいけませんからね。できるだけ疑問とかは取り除いておこうと思いまして。それとも、朝から昨日の復習が良かったりしますか?」
いやいや、と首を横に振ってアピールをする。
勉強は嫌いじゃないのだ。もちろん歴史も算術も、苦手ではあるけど逃げる意思はない。トクさんとの浴びの道中で話した内容の半分は雑談だけど、残りの半分は勉強だった。実際に物事を見ながらの勉強は楽しかったから忌避感は無い。
ただ宗司のスパルタが嫌なだけ。聞いてて楽しい話も、数時間ぶっ続けかつ必ず記憶しないといけないとなると話が変わってくるのだ。
「ふふ、正直でいいですね。安心してください。朝からお勉強はしませんよ。午前中は別の事を頼もうと思っています」
「頼み事ですか?」
「はい。ね、源治」
「ああ」
そっけなく返した源治さんは、気が付けばほとんど食べつくしていた。かなり大盛り気味だったはずなのに跡形もないのがすごい。あんまり急ぐとトクさんに叱られる、ということもある。
心の中で小さく驚いている間に、話は進んでいく。
「今日の午前中は、昨日言っていたお友達の方……緋凪さんたちと城の掃除をして欲しいのです」
「お掃除? 緋凪たちと?」
「はい。城の構造を簡単に覚えられますし、目覚ましになるでしょう?」
「目覚ましなら呉家を呼びに行くお散歩だけでいいだろうが。素直に城の警吏とか役人共に顔だけでも覚えてもらうため、と言え」
トクさんの鋭いツッコミにも動揺せず、宗司は笑みを保ったまま続ける。
「まあ、そういう事情も少しはありますけども。緋凪さんたちの泊っている宿を我々は知りませんし、頼む内容が咲乃さんの警護となると、知り合いであるという点も含めて本人がいる方が都合がいいでしょう?」
「私の警護?」
「はい。最近きな臭いので」
よく分からない咲乃以外の三人は事情を知っているらしい。説明を求めてトクさんに視線を向けても知らんぷりだ。益々首を傾げるのだが、大人たちは取り合う様子がない。まだ知らなくていい、とでも言わんばかりに話は進んでいく。
「という訳で、咲乃さんには午前中、源治と一緒にお散歩の後に城の掃除。大丈夫ですか?」
「はいっ!」
話しているうちに、四人の皿は空になっていた。手を合わせてからそれぞれのお盆を持ち、おばちゃんの所に返してから食堂を出ていく。
咲乃とトクさんと源治は城の門の方へ。宗司は城の奥に続くエレベーターへ。
源治は当然のように城の中の人たちに顔を知られているようで、すれ違ったり通りすがった人たちが皆一礼をしていた。源治は基本的に不愛想で軽く会釈を返すだけだったけど。やはりあの桔梗の側仕えというのは位が高いらしい。
門を出て、トクさんと別れる。門番に見送られながら、咲乃が先導するようにして昨日泊った宿に向かう。
そうして歩き始めてから少しすると、源治が咲乃の腰のあたりを見ながら咲乃に尋ねた。
「……その刀は?」
「あ、これですか?」
美しい蒼と白の
「かなりの業物のようだな。だが、その分重いだろう。扱えるのか?」
「扱えますよ! 野良のなら雑鬼だって簡単に斬れるんですから。剣術の師匠には、結局最後まで皆伝扱いにはしてもらえなかったんですけど」
「剣術の師匠? あのトクさんとかいうやつがお前の師匠じゃないのか」
「トクさんは……師匠っていうかお兄さんとお父さんって感じ……?」
疑問符を浮かべる源治に、咲乃は説明を続ける。
「私の実家の神社がある村は山の奥地で、村の人も旅の人も少ないんですよね。だから神社に来る人も少なくて。その数少ない参拝者の中で、仲良くなったりしばらく付き合いができた人のうちの一人が剣術の師匠なんです」
ふらふらと旅をしているうちに、山の奥地に流れついた浮浪剣士。それでいながら実践剣術の技量は高く、咲乃を短い時間で最低限戦えるまでに鍛えたのだ。
当時たったの八歳。それでいながら身の丈を超える大太刀二振り以外使いたくないとゴネた少女を、一端の剣士にできる技量。正統な型なんてものを全く教えず、ただただ勝つための技を教え込んだ酔狂者。
それが、咲乃の師匠だ。
その後の鍛錬やトクさんとの模擬戦を欠かさなかったからとはいえ、たった十五歳の少女が雑鬼を斬り倒せるのは彼のおかげに他ならない。ふらりと来てふらりと消えた彼の青年は、彼女の中で色濃く根付いている。
……ということを語って聞かせると。
「なるほどな。この例祭……秋祭りでも剣術大会が開かれるわけだが、出場しないのか?」
「ちょっと悩んだんですけどね……どうしましょう?」
幻想やオカルトが実在するようになった今、剣術大会は後祭りでも開催されるほどの人気種目だ。剣術メインなら何でもありのバーリトゥード形式、剣術のみ部門で分かれていて、トーナメント上位ともなると尾張の外からも見に来る人がいるほど。
術関係はともかくとして、そこまで言うなら剣術のみの大会になら興味を示しそうなものだが、咲乃は。
「うーん、後祭りも楽しんだら旅に戻るつもりなんですよね。それに私のは喧嘩剣術なんです」
「なるほどな。……勿体ない」
用事や目的がある人間を引き留めるつもりは源治にもない。
だが、この尾張でも上位を争えるであろう愛らしさを持つ少女が剣術大会をかき回す姿は、お堅い源治としても見てみたかったのだ。実際に戦闘を見たわけではないが、所作や見える部分の筋肉のつき方だけでも実力は大体わかる。そして、桔梗の近衛頭の役割もしている源治をしてその実力は高く見えたのだ。
たとえ正道でない喧嘩剣術だとしても、その戦いを見たかった。
実に、実に、勿体ない。口の中だけでそう呟いたのは、咲乃には聞こえなかったが。
「そういえば、今向かっている宿にいるやつ……緋凪とやらもその剣術関係か?」
「いえ、私の実家の神社にふらりと現れたところ以外に接点は無いですよ。それに緋凪は呉家……中華拳法の使い手ですから。美人さんなのに強いんですよー!」
えいえい、とシャドーボクシングをしてみせる。……もちろん呉の型なんて覚えていない咲乃の動きは稚拙で、児戯に等しいものだったのだが。
よくわかっていなさそうな源治のために、緋凪とのエピソードを話して聞かせることにした。
初対面なのに、刀を見た瞬間に決闘を仕掛けてきたこと。
何だかんだ打ち解けた後も、何度も戦ったこと。
かっこいいお姉さんの先輩を装っているくせに、門下生にとても優しいこと。
小さい頃の思い出を、脳裏に思い浮かんだそのままに語っていく。
それは、宿について緋凪を呼び出し、練習着に汗を染みさせたまま間に割って入って止めるまで続くのだった。
その後の師範たちや親御さんを混ぜた話し合いが行われた。
咲乃や城の状況の説明、緋凪の雇用条件と呉家の扱い、その他もろもろ。当初の予想通り呉家のオヤジさんは断るわけもなく、むしろ諸手を挙げて賛同した。
呉家が火ノ国にいるのはあくまで修行の旅であり、一門の単なる旅行なのだが、修行という名目が絡む以上それが小さな諍いのタネになりかねない。変な話、酔った変に腕に自身のあるオッサンに絡まれて反撃しただけでも白い眼で見られてしまうかもしれないのだ。
そんな中でやっていた自分たちが一国の主のお抱えになる。つまり、大きなバックアップと信頼を手に入れられるのだ。
あと、オヤジさん的な視点で言えば、安心できる娘の友人の護衛につけるだけで少なくないお給金がもらえる。そのうえ門下生の子供たちの面倒を見やすくもなる……むしろ断る理由がない。
娘に睨まれる以外は、オヤジさんに不利益は無いだろう。
……あ、思いっきり蹴られてる。平謝りしてるけど……ああ、軽い寸勁まで……。
とまあ、そういうわけで。
「お城のお掃除をすることになりましたっ! 護衛とお手伝いよろしくね!」
「どうせ式神に手伝わせるだろお前。私は見てるだけにする」
「バレてる! なんで!!!」
ため息をつきながら自室に行く緋凪を見送って、宿の談話室でお菓子を頬張るのだった。
ついでに、源治さんと話していて準備をしなかった門下生とオヤジさんはまた殴られていた。
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