お受験ですエルフさん
パラリ、とページをめくる音がする。
放課後の教室。1つの机を挟んで、5人が椅子に座っている。
片方には、江藤さんを真ん中にした僕と真木さん。もう片方には、このクラス、いや学年の成績優秀トップ2である遠藤さんと倉田。
「……ふむ」
今まで勉強に使っていたノート数冊を読んでいた倉田が、かけていた眼鏡の一ミリのずれを中指で直した。
「日本語の読み書きができなかった……との事ですが?」
「はい、うちの子は、こちらに越してくるまでは日本語は話せても、日本語の文字に触れる機会がありませんでした。ですから、この子が読み書きの勉強を開始したのは、このクラスに入ってからになります」
真木さんが真剣な顔で、倉田に応える。
「ほぉ……では、今日までの短期間でここまでの成果をあげた……という事ですね?」
倉田が、隣の遠藤さんに目をやる。さきほど15分ほどの時間をかけて行われた読み書きのテスト問題の添削がちょうど終わったところだった。
「問題ない。全問正解。少し漢字に違和感があるけれど書きなれていないだけ。読み書きに関しては中学三年生レベルは超えていると保証する」
わーい、と喜びの声を上げようとした江藤さんが、真木さんに「はしゃいじゃだめよ、行儀よくしなさい」と小声でたしなめられて、姿勢を正す。可愛い。
「短期間で、一つの言語の文字を一定水準まで覚える能力。稀有と呼ばざるを得ない。お子さんの持つ学力は素晴らしいものと言えるでしょう」
「では……!」
真木さんが、ガタリを腰を上げて席を立つ。
「うちの子は……! お受験は大丈夫でしょうか!」
「保証します」
倉田の眼鏡がきらりと光る。
「私と、隣の遠藤が、責任をもってサポートいたしましょう。お子さんがどこの大学であろうとも問題なく合格できる事を、我々が約束いたします」
「ああ……有難うございます! ほら、弓塚もお礼! お礼して!」
真木さんがバタバタと手を振りながら僕を見るので、なんとなく立ち上がって倉田と遠藤さんに頭を下げる。
「えーと、じゃあ、よろしくお願いします」
「お願いします?」
よくわからない感じの江藤さんも一緒に頭を下げる。うん、僕もあんまりわかってない。
「では、細かい内容は後で打ち合わせをするとして」
倉田が机に両肘をついて手の甲の上に顎を載せた、いかにもなポーズをとる。
「さあ……始めようか。江藤さんの受験対策である学力向上プロジェクト『お受験なんて怖くない! やってて良かった倉田式!』を」
とりあえず、プロジェクト名は却下となった。
〇●〇●〇●〇●〇●〇●
江藤さんと続けていた放課後の読み書きの勉強は終了となった。スポンジが水を吸収するかの如く、江藤さんはすごいペースで知識を身に着けていった。魔法、ではない。隣でずっと見ていたからわかる。江藤さんは、自分自身の努力だけで、この成果を上げたのだ。本当に、凄い。
そして、水面下でお受験暴走していた真木さんが、倉田と遠藤さんに協力を依頼し、今回の面談となった。江藤さんが、今後どのような将来を見据えているのかは分からないが、受験対策を行う事は決して無駄にはならないと思う。この世界を知るという意味でも、成績優秀で知識レベルも高い倉田達から教わることができるというのは江藤さんにとって僥倖だろう。
「私と倉田委員長は書道部に在籍しているので、放課後につきあうということはできないけれど、エルちゃんには専用に作成した問題集を解いてもらう事で、学力向上を狙っていきたいと思う。もちろん、質問は随時受け付けるし、放課後時間があえば指導も行いたいと思っている」
遠藤さんが、真木さんに説明している。
「良かったね。これで、他の教科も、みんなについていけそうだよ」
最初の頃、江藤さんは教科書の文字が読めなかったため、授業についていくのに非常に苦労していた。異世界のエルフが、高校生レベルの授業を、この世界の知識常識歴史を知らずに受けるという事はどんなに大変だったことか。最近、ようやく読める文字が増えてきたとはいえ、やはり根本的に高校生まで教わる情報が皆無な為、江藤さんの成績は決していいとはいえないものだったのだ。
お受験などという言葉を使ってはいるが、真木さんは凄く心配していたのだろう。ひとまず安堵した表情で、エルちゃんに話しかけてきた。
「アタシも協力するから、エルちゃん頑張りましょう? 弓塚、お疲れ様。貴方のおかげでエルちゃんも次のステップに進めるわ」
僕が頷くと、それまで周囲の女子に満点の答案用紙を見せびらかして得意げになっていた江藤さんが、真木さんの言葉に首を傾げた。
「真理愛ちゃん、弓塚君にお疲れ様ってどういうことですか?」
「エルちゃんのテスト満点だったでしょう? もう、読み書きの勉強はしなくても大丈夫って事がわかったのよ。これからは、色々な教科を倉田と遠藤さんがエルちゃんに教えてくれることになるわ」
「弓塚君は、一緒に教えてくれないんですか?」
「僕は、そこまで成績良くないから。江藤さんに、教えることはできないと思うよ」
僕が答えると、江藤さんは、そこでうつむいてしまった。さきほどまで喜んでいた答案用紙をクシャリと手でつかんだ音がした。
「……」
真木さんと顔を見合わせる。なんて声をかけようかと思っていると、江藤さんが小さく呟いた。
「寂しい、です」
江藤さんが漏らした声は、いつもの江藤さんとは思えないほどに弱弱しかった。
「……弓塚君に教えてもらう放課後の勉強は凄く楽しいんです。少しずつ読める文字が増えていくのが楽しいんです。漢字の色んな意味を知ることが面白かったんです。……全部……弓塚君に教えてもらったんです……」
江藤さんが僕を見上げる。
「もう、教えてはくれないんですか?」
僕を見つめるその瞳に、胸が詰まる。
僕も江藤さんとの放課後の時間は楽しかった。隣で、問題に頭を抱えてうなったり、正解した時の笑顔なんかが、とても可愛くて、勉強をあまりしない僕が江藤さん用の問題を毎日毎日作るのは本当に楽しかった。
だけど、読み書きばかりずっと続けていても、江藤さんの学力向上にとって意味がない。これからは、倉田と遠藤さんに教わることが、江藤さんのためになるのだ。
「弓塚君……」
何と言って説得しようか。迷っている僕の前で、目を瞑っていた腕を組んでいた倉田が遠藤さんに声をかけた。
「遠藤、もう一人分の問題集を作ることは可能だと思うか?」
「可能。対象の学力は把握している。エルちゃんよりもほんのすこし上なだけ。そんなに負担はかからない」
「俺の考えも同感だ」
倉田が目を開けると、元気のなくなった江藤さんを見つめた。
「江藤さん、お願いがあるのだがいいだろうか?」
「……何ですか」
「君の学力向上プロジェクトだが、当初の予定を変更して、一人ではなく二人で行いたい。これは、二人が問題集の採点結果を競い合うことで高い学習効果が得られると思っての提案だ」
「二人……」
「俺たちは、そのもう一人に弓塚を勧めたい」
江藤さんが、僕をパッと見つめる。
「弓塚は、授業中に早弁をしたり、テスト期間中に「俺全然勉強してないわー」と言って実は猛勉強していて高得点を取ることもなく本当に全然勉強していなかったり、赤点の答案用紙5枚あつめて「フルハウスだ!」と言って泣き叫んだりしている」
おい。
「そんな弓塚を、読み書きの問題で勉強に支障が出ているだけの江藤さんと比較するのは大変心苦しい事ではあるが、さほどレベル的には差が無いと思う」
そこで遠藤さんが江藤さんの手を握った。
「弓塚と一緒に頑張ってほしい。これからの放課後の時間も、私達が作る問題集で弓塚と勉強してくれないだろうか」
「…はい……はい!」
ぎゅっと手を握り返す。江藤さんが、僕に振り返って言う。
「あ、あの、一緒にいいかな!」
その必死そうな表情に僕は笑った。いつのまにかこうなってしまったけれど、もちろん僕も文句はない。
「うん、これからはライバルだね」
僕の言葉に、さきほどまでの元気のなさが消えていった。
「一緒に頑張ろうね! よろしくお願いします! 弓塚君!」
その言葉を聞くのは二度目で。
彼女のその笑顔を見るのも二度目だ。
だけど、やっぱり回避は不可能だった。
彼女の、その嬉しさが瞳と頬にあふれた表情は、その場にいた四人の心に突き刺さった。
至近距離だった僕は、メッタ刺しだった。
――たぶん、今までよりも、もっと深いところに。
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