黄昏
秋雨千尋
目覚まし時計の喪失
ジリリリリン。
目覚まし時計が意思を持っていたのは、いつまでの事だっただろう。
定められた仕事をただこなしていただけだが、確かに彼に声はあった。高らかに叫んでいた。自己の存在をこれでもかと伝えてきた。
起きろ!と。
彼の強い意志に突き動かされる形で、私は毎朝、夢から呼び覚まされた。
彼の仕事は相手の都合など御構い無しだ。美女をはべらせていようが、南国でくつろいでいようが、あるいは悪夢を食らうバクの仕事中だろうとも。
毎朝、同じ時間に同じように意思を放っていた。
同じ服を着て、同じ会社に向かう私とそっくりだった。まるで運命共同体のように。
休みの日でもそれは変わらなかった。
彼の意志に、私が応える。
そんな長年連れ添ってきた彼との生活に変化がもたらされたのは、いつだったのか。
退職した一年前か?
いや違う。その前から時計は気持ちを無くしていた。壊れた訳ではない。確かに音を発してはいたが、見せかけに過ぎない。まるで血が通っていなかったのだ。吸血鬼に襲われた哀れな乙女のように。
妻を亡くした2年前か?
それも違う。あの日の朝の音色を今でも忘れる事は出来ない。常温で二日放置したパンのごとき乾いた声になかなか目を覚ませず、覚醒しない頭で足を引きずるように歩いた道のりは、体感で三千里ほどはあったはずだ。
見慣れた台所で、妻が見慣れぬ姿をしていた。
いつも定規を入れているのかと思うほどシャンとしている背中が卵のラインのように曲がり、風に揺れる一つ縛りの髪は、床に無造作に散らばっていて、見ていれば勝手に動き出して逃げていきそうだった。
色褪せた銀色のボウルの中身も一緒に床を這っている。ぬるりとした黄身がこちらを睨みつけているようで、私は目を逸らした。
妻の脳に巣食った蜘蛛は、どこに飛んでいったのだろうか。私の頭の中にやって来る事は無く、今年の健康診断でもコレステロールが血管に嫌がらせをしている以外に問題は見つからなかった。
娘が巣立った日か、結婚した日、いや孫が生まれた日か。
目の前に映画のフィルム浮かび上がり、ぐるりと私の周りを囲っていく。次々と映し出される記憶の何処にも理由は見つけられない。
残るのは〝いつのまにか消えてしまった〟という事実のみ。
かすむ視界で目覚まし時計の無表情を見つめていても先には進めそうにない。私は眼鏡を手探りで見つけて、衰えた視力を文明の利器を利用して補う事に決めた。
雨戸を開ける音が響き渡り、カラスがバサバサと尾を向けて去っていく。悪戯が見つかった子供のような反応だ。賢い彼らが何故群れて過ごすのだろうか。
テレビに日を灯すと、お馴染みの顔ぶれが並び、視聴者から不平不満が来ぬようにと気を配られたスーツ姿で、代わり映えのないニュースが読み上げられる。昨夜とだいたい同じことを言っているものだから、覚えたての言葉を使いたがるオウムを思わせる。
焦げ付いたフライパンの痕跡を残した目玉焼きに、冷凍庫で一晩眠ったご飯を、化学兵器で力づくで蘇らせる。納豆はタレのみ派の私は、ちゃぶ台に置かれた辛子タワーの全長を更新する。
汚れた食器を流し台にしまって、散歩に出ようとした腰が悲鳴をあげてメーデーを訴えて来る。分かった分かった。今日は休みにしよう。
だからそんなに喚くな、お前の好きにしてやるから。
窓から差し込む光が、氷が溶け切ったレモンスカッシュに似ている。
陸に打ち上げられたアザラシのごとく大人しくしていても、腰はアンコールの止まないロックシンガーのごとく叫びまる。ヘッドバンキングのように手を上下に動かして宥めるも、まだまだ夜は終わらないとばかりにギターを破壊する。
昼飯を作る気力は重箱を五つ開いたとしても見つからない。
いつのか忘れた土産物のおかきを口に運ぶ。
カリ、カリ。無機質な打鍵機が同じフレーズを響かせる。カリ、カリ。ポットから茶碗へ湯の引越しをするはずだったのだが、どうやら売り切れてしまったらしい。
妻が一時間並んでも買えなかったと嘆いていたシュークリームを思い出す。
だが水を汲みにいく気力は、消しゴムのカス程度しかなく、吹けば飛んでしまった。
窓から差し込む光が、ドリンクバーのオレンジジュースに似ている。
遠くで焼き芋屋が情緒あふれる音色を奏でている。はるか故郷を思い起こさせる旋律は道行く人々の涙を誘う事なく、腹からの救援信号をひたすらに発信させる。
甘美な匂いは強い多幸感を呼び起こす。ある者は戯れに、またある者は現実から逃れるべく必至に手を伸ばし、ひとときの夢に酔いしれるのだ。
おやじさん、一つくれないか。
カンカン照りが続いて水をやるタイミングを逃したミニトマトの枝のように乾いた喉は、音を発する事なく、夢を見る為のチケットは渓谷に飛ばされていった。
窓から差し込む光が、あの日の黄身に似ている。
土砂降りの雨に打たれた庭のバケツのごとく腹の虫の絶叫に急かされて、蚊の羽程度しかない夕飯を作る気力をなんとか奮い立たせる。
腰のロックフェスに耳を塞ぎ、なんとか台所までの道のりを進んでいく。カーリングの玉とまではいかないが、幼稚園児が投げるボウリングの玉ぐらいのスピードが出た。
ようやくたどり着いた小さな南極の前で、貼りつけた写真を目にする。
孫が一升餅を担ぎ、娘と妻が笑っている。
薄く色褪せて、端が曲がっているそれを見つめていると時間が止まっているように感じる。
便りが無いのは元気の印だ。
電話で話すほどの内容はそうそう転がっていない。河原の散歩中にごく稀に見る四つ葉のクローバー程度の確率だろう。
誰の葬儀の予定もない。これほどいい事は無いはずだ。喪服はタンスの肥やしになればいい。やがて芽を出し、白い着物にでも生まれ変わるがいい。
カチカチに凍り、シベリアから流れてきたかのようなシチューを蘇らせて、そこに駒があるから回すごとく自然さでニュースを点ける。誰が結婚した、誰が離婚した、誰が死んだ。
もう窓から光は差し込まない。
中から漏れ出る光が外にはみ出ていくだけだ。カーテンの向こうの漆黒に一筋の線が通るのみ。それはきっと夜中にドアが開いた時に似ている。
流し台では汚れ物たちがサーカスの真っ最中だ。下手に動かせば空中ブランコは落下してライオンは主人を噛むだろう。余計な事はすまいと風呂場に向かう。
メダカの居ない水槽を思わせる湯船を、感情を道端に置いてきた機械音声と共に焚きつける。
オフロガワキマシタ。
古くなってきたその声には、初めから意思など無かった。あんこを入れ忘れた饅頭のように。
風呂場の支配者ヅラしている黒カビは、メガネを無くした世界では消失するしか術はない。
のんびり浸かり、腰の機嫌をとる。
明日はフェスは休みだ。いいな。オフらしく買い物にでも行ってくるといい。
湯上りの一杯の水は命綱だと妻が言っていた。
乾いた世界には乾いた物しか存在しない、潤いを与えなければ何も育たない。毎晩飲んでいた命綱達は、そんな妻の期待に応えるつもりは無かったらしい。
ぺちゃんこの布団に潜り込む。
今日は何もしていない。昨日も何もしていない。明日はどうなんだ、明後日は、その次は。かつての相棒に聞いてみる。
チッチッチ。
規則正しいリズムは相変わらずだが、そこに意思は無い。
いつから失われたのか、私と同じなら。
自分が生きていないと気付いた時だろう。
空っぽの部分を見つけて、失くしてしまう。気付きさえしなければ永遠に続いていくのに。
スイッチを入れて、金魚のフンのごときヒモを引いて電気を消す。
明日も同じ音色が聞こえてくるまで。
わずかひと時の「生きている」時間へと旅立とう。
「黄昏」
完
黄昏 秋雨千尋 @akisamechihiro
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