たにねこ


 猫の道は猫が知る。


 猫は、よっぽどのおデブでない限り、頭が通るすき間は全身が通過できる。彼らのひげは、その幅を計るためにあるのだという。


 僕の旅の相棒、黒猫のトントンは好奇心旺盛だから、ひげの幅の許す限り、どこにでも首を突っ込む。どこでも通る。


 トントンに限った話でもないだろう。たいていの猫は、そうして自分のお気に入りの秘密の場所を探す。狭いところに顔を突っ込んで、通れるか通れないかを探りながら、広い世界を知っていく。


 ひげの幅という、おのれの行く手を縛るたったひとつの制限。それは猫にとって、不自由ではなくむしろ自由の象徴であり、なればこそ顔の真ん中に誇らしくぴんと張っているのだろうと、僕は思う。





 広く平らな台地に、南北に流れる川が深く地をうがち、ひび割れのように谷をかたちづくっていた。その東岸の崖上を街道が通り、宿場町があって、僕とトントンはしばらくそこに逗留していた。


 名産とか史跡とか、その町ならではのものは何もなく、退屈だった。川より高い位置にあって水を得るのが難しく、農作には適さない。都市間に距離があるからしかたなく宿場が作られただけで、他に稼ぐすべがない土地のようだった。


 宿屋とそれを取り巻くいくらかの家並みが、旅人が落とすお金で賄える限界なのだろう。他力本願で作られた町は、あまり覇気がなく、殺風景だった。



 しいていえば、荒々しい岩肌の渓谷美が見どころとされていて、谷底が見えるギリギリの際に展望台が作られていた。とはいえ自然は人間の都合には合わせてくれない。長い年月をかけて長い距離に同じように刻まれた景観は、だいたい似通っていて、そこだけが特別険しいわけではなかった。というか、これくらいの谷なら、僕は子供の頃、橋の上から度胸試しに飛び込んだことがある。


 はてさてこの町の子供はそういう遊びをするのだろうか、水深が十分あればよいが、などと思って展望台から見渡してみると───おや、それ以前の問題だ。この谷には橋が架かっていない。


 地図では、対岸も平らな台地になっている。道は通っておらず、誰も住まない原野のままと見て取れた。人が住んでいないのなら、橋がなくても不思議はない、が。


 わずかに標高に差があるのか、展望台から対岸を見ても何も見えなかった。崖が地平線となって、空を切り取っていた。



 対岸に何があるのか、宿のおかみに尋ねてみると、返事はこうだった。


 「向こうに渡った人はこれまで誰もいないんです。だから、何もわかりません。ただ───そりゃあ美しい花畑があるそうです」


 はて面妖な。


 「誰も行ってないのに、なぜわかるんですか」


 「春先に吹く西風が、とてもかぐわしいからですよ。今年ももう間もなく吹く頃です。あれだけ良い香りならば、さぞかし美しい花なのでしょう」


 なるほど。しかし、香りだけ良くて見目の悪い花なんていくらでもあるだろうに、町住まいの人は、香りと見た目を同じに考えるんだろうか。


 「誰か見に行って、どんな花が咲いているか確かめたらどうですか」


 「それは意味がありません。香るのはほんの一日だけなのです。香りに気づいてから出かけても、もう散ってしまっていますよ。無駄なことはしない方がいいじゃありませんか」


 そうなんだろうか。無意味と断じてしまう感覚もよくわからないが、それより、截然せつぜんたるとはいえ、あの谷は子供が飛び込めそうな高さなのだ。きちんとした装備で、丁寧にルートを探っていけば、谷越えはさほど難事でなさそうに思えた。こうつと、崖を降りて川を渡って崖を登ってその往復で、日帰りで可能ではないかしら。


 ふむ。


 押し問答するより、実際に行って直に見るが易い。


 町の便利屋でいくつかの道具を借り出した。本格的な登山用具はなかったが、丈夫なロープと、滑り止めのついた手袋、防水のズボン、足がかりにするかすがいとそれを打ち付ける槌、必要なものはおおかた揃えられた。


 数日かけて準備万端整えたちょうどその翌朝、鼻をひくひく揺らしながら、みぃあみぃあと酔ったように鳴くトントンに僕は起こされた。窓を開けると、鼻孔が溶けるかと思うほど、蜂ならずとも引き寄せられてしまいそうな甘い香りが、西からの風に混ざっていた。


 よし、行こう。


 「無意味なのに」とかこち顔をする宿のおかみに見送られて、かぐわしい風に向かい、西へと歩き出した。



 宿を出て、ほんの数歩進んだところで、逆に東へと向かう男に出くわした。


 「やぁ、今年もいよいよ風が吹きましたね」男は話しかけてきた。「谷の向こうにどんな花があるのか、何としても越えたいものです」


 「谷は西ですが」僕がそう答えると、こう返ってきた。


 「東に森があるのですよ。とびきり高い木を伐って、一本橋を渡すのです」


 「そんな大木を、どうやって運ぶのですか」


 「それは重要ではありません。あの幅広い谷を越える方法は、橋を架けるほかにないのですから、そうするだけです。熟考して至った結論です。考えればわかることは、考えて解決するのです」


 ちらりと宿の玄関を振り返った。宿のおかみが肩をすくめ、大仰な身振りでやれやれとあきれていた。



 しばらく進むと、また別の男に出くわした。道の北に工事用の砂場があって、そこへ向かって走り、幅跳びの要領で勢いよく跳び込むことを繰り返していた。


 「やぁ、今年もいよいよ風が吹きましたね」男は話しかけてきた。「何としても谷を越えたいものです」


 「谷は西ですが」僕がそう答えると、こう返ってきた。


 「鍛えているんです。あの谷を跳び越えるには、まだまだ足りません」


 「跳び越える」


 「力こそがすべてです。およそのことは筋肉が解決します。体を鍛え上げ、必ずやあの谷も跳び越えてみせましょう」



 展望台のそばに、太い松の木が立っていた。しっかりと根を張っていて、これなら僕とトントンの体重を崖下まで支えてくれそうだ。


 ロープの準備をしていると、頭上からさめざめと泣き声がした。見上げると、さほど高くない枝に男がひとり跨がっていて、両の足の先にはおもりをぶら下げていた。股裂きの刑の格好で実に痛そうだが、おもりは小さく、自らへの戒めをわざわざ見せつけているかのようだ。


 「あぁ、今年も風が吹いてしまった」男は問わず語りに嘆いた。「谷を越えたいのに、どうしても無理なんだ!」


 「そこにいては無理でしょう、下りてこないと」僕がそう応じると、こう返ってきた。


 「足がもっともっと長く、谷は跨ぎ越せるくらい長ければことは単純なのに! どうして母は、私をこんな短足に産んでしまったんだ!」


 「短足」


 「だからこうしておもりをつけて、少しでも足を伸ばそうとしているのです。しかしちっとも伸びないのです。あぁ、世の中はままならぬ。解決できないことばかりだ」



 僕は黙々と、松にロープをくくりつけた。ぐっぐっと引っ張って、体重に耐えられるか確かめる。


 切り立った険しい崖だけど、川の流れが削った谷だから、決して垂直ではない。ごつごつした岩場には足場が十分にあり、ほら、トントンが器用に先に下りていく。僕は、ロープに身を預けつつも、後を追ってひとつひとつ足を置いていけばいい。ほどなく、谷底の川岸にたどり着いた。


 上流から冷たい雪解け水が下ってくる時期で、川は勢いよくどうどうと音を立てていた。問題は水深だ。泳いで渡ろうものなら凍死しかねない水温だから、用意した防水ズボンの丈を超えるなら、渡河はあきらめるつもりだった。しかし、岩場をよくよく見ていくと、平たい岩が都合のいい位置に並ぶ、絶好の場所を発見できた。そこから渡ると、向こう岸へ至るまでに、ひかがみが数回浸かる程度ですんだ。


 次は登り。こちらも急斜面だけど、確実な足場をトントンといっしょに探りながら、少しずつ進んでいく。ときにかすがいを打ち込み、身を支えるロープを通す。


 時間をかけて、太陽が中天に位置する頃、どうにか崖を登りきった。ついに谷を越えたのだ。





 辺りは予想通り見渡す限りの原野で、高い丈の草が生い繁っていたが、その奥から、薫風が変わらず吹いていた。朝に比べて香りが強く感じられるのは、目的地まで来て安堵したせいだけではないだろう。


 草をかき分けて進む。やがて急に視界が開け、同時に、すさまじい香気が押し寄せてきた。



 そこは───薄黄色の小さな花に埋め尽くされていた。いくらか生えた灌木のことごとくに、野生の木香薔薇モッコウバラのつるがのたくりからまって、いっせいに花を咲かせていたのだ。


 見渡す限り咲き誇る花から、目に見えるほどの蜜の蒸気がほとばしっていた。鼻を通り越して舌にまで甘く届き、頭の奥の方までとろかして、おかしくなってしまいそうだった。ちょっとトントンがしんどそうだ。ザックの蓋を開けると、みゃあと弱々しく鳴いてふらふらと潜り込んだ。


 あぁ───思い出した。その強烈な香りのせいだったかもしれないし、特徴的な蔓の形が記憶の端に残っていたのかもしれない。僕は、年にたった一日しか咲かない、朝いっせいに咲いて日暮れには散ってしまうこの珍しい木香薔薇について、かつてある老園芸家に講釈を受けたことがある。


 その薄命ゆえに、珍重する好事こうずな園芸家が何千人といるのだ。栽培がとても難しく、鉢をいくつ並べても、どんなに熟練しても、つぼみをつける株が育つことさえまれだという。一輪でも開花するとわかれば、郷中の住民を呼び集めて見物させるくらいのものなのだと、それは比類なき誉れなのだと、老園芸家は熱く語っていた。


 それが、大規模に自生している。加えて、聞いた話が確かなら、毎年定期的に咲いている。


 そうだ、かの園芸家は、肥料を研究していた。確実に咲かせるために、土に何をどんな割合で混合すべきか。しかし成果が確かめられるのは、年に一度ほんのわずかな時間だけだ。亀の歩みよりのろい、根気のいる研究だが、それでも人生を賭けてしまうくらい魅惑的な花なのだと、白髭をしごきしごき、これまた彼は熱く語っていた。


 この場所の土壌を調べれば、研究は大いに進展するだろう。



 ……香気のせいか、体中に響き渡るほど動悸が激しくなって、かえって気分が悪くなってきた。ザックの中のトントンもふみぃと弱気に鳴いている。


 何より、もう日が傾き始めている。川を戻り渡る前に日が暮れて先が見えなくなったら、えらいことだ。僕は早々に引き揚げることにした。





 帰路の谷越えに取り組む。焦らず、慎重に。行きに仕掛けたかすがいを、ひとつひとつ踏みしめて崖を下りる。朝と流れや水深の違う場所がないか確かめながら、川を渡る。いよいよ日が傾いて暗がりになる谷底から、明るい日なた目指して、ロープをたぐって岩場を踏みしめ、崖を登る。


 行きと同じだけの時間をかけて戻り、ようやく僕は、出発地点の松の根元に腰を下ろした。西からは夕陽が柔く照らすばかりで、風はやんでいた。かの薔薇の残り香が、あたりをふうわりと包んでいた。


 見上げると、足におもりをつけた男はまだ樹上にいて、さめざめと泣いていた。泣きはらしたその目は真っ赤だった。


 「あぁ、全然足が伸びない。みんな短足が悪いのだ。母のせいだ。いやことによると、母は騙されたのかもしれぬ。陰謀に巻き込まれ、短足を産まされたのかもしれぬ。きっと政府の責任だ。私は生まれる時代を間違えた」


 黙々とロープの片づけをしていると、どうと強い西風が吹いた。あの薔薇は散ってしまったのだろう、甘い香りはもう混ざっていなかった。逆に、この地に残っていた残り香をすべて吹き飛ばしてしまい、辺りはまた昨日までのように無臭になった。


 男は急に黙り込むと、木を下り、おもりをはずした。


 「もう足を長くしなくていいんですか」そう尋ねると、こう返ってきた。


 「私が嘆き苦しむのは、全部あのかぐわしい風のせいだ。しかし風が吹かぬとなれば、あぁ、まったくつまらない、なんの刺激もない人生なのだ。やってられん」男は不機嫌に顔をしかめたまま、去っていった。



 帰り道の途中、幅跳びをしていた男に出会った。


 「少しは飛距離が伸びましたか」そう尋ねると、こう返ってきた。


 「あのかぐわしい風が吹いてもいないのに、鍛えてもしょうがないでしょう。目的なく鍛えるなど、愚か者のすることです」



 宿の前までくると、出がけに東へ向かった男もちょうど戻ってきたところだった。


 「良い木は見つかりましたか」そう尋ねると、こう返ってきた。


 「あのかぐわしい風が吹いておればこそ、考え、計画し、実行する意義があったのです。今やすべて遅きに失した。もう何も考えたくありません」



 宿の玄関で、おかみが迎えてくれた。


 「いかがでした、花は咲いていましたか?」


 ……何と答えたものだろう。少し考えてから、僕はこう言った。


 「もう、散りました」


 「そらごらんなさい。骨折り損じゃありませんか。無意味なことはしないがよいのです。……さ、夕餉はいつお持ちしましょうか?」


 おかみはからから笑ったけれど、仕事ぶりはいつも通りで、かいがいしく僕を客としてもてなしてくれた。



 谷越えは一仕事だったから、疲労困憊だ。心づくしの夕飯をたらふく食べて、風呂にのんびり浸かって、僕は早々に床につくことにした。


 トントンも用意されたかごの中に収まり、今はもう無臭の空気を呼吸して、丸めた背中をゆっくり上下させている。


 カーテンを閉める前に、窓から空を見上げた。月光さやかに射し込む、静かな夜だった。この平穏を乱す権利は、誰にもないのかもしれない。





 さて。


 かの老園芸家には、年齢的に崖の上り下りは無理だ。いや彼に限らず、一介の職人におすすめできる道中ではない。誰かが橋を架けねば、あの自生地へはたどり着けない。そして橋を架ければ、誰もがあの自生地へたどり着ける。


 僕は、毎年かぐわしい風が吹く、だけど誰も橋を架けようとしないこの町のことを、かの園芸家に伝えるべきだろうか?






<今回の更新をもってひとまず終了です。ありがとうございました。

 新しいエピソードが思いついたら続きを書きます。期待せずお待ちください>

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