やぶねこ

 子供の頃は、どこでも刺されりゃかゆかったから、全然気にしてなかった。でも、この歳になってくると、がぜん気になってくる。……どうして蚊っていう生き物はこう狙いすましたようにかゆくなるところを刺すのだろう?


 向こうずねとか、指の関節のところとか。存外、体が大きくなって、皮膚が鈍感になってくると、他のところは刺されても気づかなかったりするだけなのかもしれないけれど、でもやはり、気になる。蚊にも学校があって、正しい人間の刺し方とか、教育してるんじゃないかと、想像してしまう。


 そう―――将軍に、もう少し、ちゃんと訊いとくんだったと、そうすれば、次の夏はあんまり困らなくてすんだんじゃないかと……思っても、後の祭りだ。


 将軍。僕の夢枕に、恨みがましい顔をして出ないでね。




 すっかり秋になっていた。一番心地よい時期だった。だから、僕にしては珍しく、野宿としゃれ込んだ。街道脇から少し踏み分けて進んだ竹林の中、空には明るい十六夜いざよいの月。風が吹くとささぁささぁとふるえる空気が素晴らしく、そこにひとり横たわって眠るというのは、まるでどこかの韻文に詠み込まれそうな風情だったのだ。……見た目は。


 虚構と現実の差というのはよく論じられるものだが、論じる以前の問題がときどきあることを僕は知っている。たとえばここがやぶ蚊の縄張りだったとか。


 気がついたときには遅かった。もう秋だし、そんなに出てこないだろうと思ったのも、甘かった。そのときの服装はといえば、腕と両の太股は丸出しだったから、僕はまさしく鴨ネギだった。蚊どもはこれ幸い、周囲の薮からどっと襲いかかってきた。僕は慌てて、相棒のちび黒猫トントンを荷袋に押し込んだが、自分の身は守るべくもない。手に足に二匹三匹いちどきにとりついて吸う吸う、あっという間にあちこちがぷくぷくとふくれあがり、ジンマシンでもないのにからだ中がかゆくなってきた。


 ばしばしと潰すうちに、手にべたべたと蚊の足やら目玉やら吸われた血やらくっついてまだらになってしまったが、それでも蚊の猛攻はやまない。しかたない、かくなる上は野宿はあきらめてよそへ行くしかないと、あたふたと立ち上がりかけたとき、


 「その狼藉、どうかつつしんでいただけませぬか」


 僕の真後ろで突然声がした。振り向くと、奥の薮からひとりの女がちょうど出てくるところ、のように見えたが、薮をかきわけるがさがさという音は聞こえなかった。


 女は、この辺りではあまり見かけない、赤茶色のゆったりしたあわせ服を帯で締め、その上に、鉄板になめし革を打ちつけただけの胸当て鎧を身に着けており、鉄の椀をひっくり返して、そのてっぺんから糸の房の飾りをつけた兜をかぶっていた。鞘に錺金ほうきんを施した細い剣も腰にぶら下げているが、お飾りにしか見えない。ひとむかし前の武官の風采だが、それにしても、貧相な部類に入る。白塗りの顔にふっくらした頬、細いがきつい視線の目と、妙にやせぎすで足の細い体格が、全然その服装に合っておらず、武人という雰囲気にはまるっきり欠けていた。つまり完璧に中途半端な侍だった。これまた首をひねりたくなるような表現だが。


 気づくと、蚊どもは僕の手足から離れていなくなっていた。それでもかゆいからぼりぼりとかきながら僕は女の話を聞いた。


 「それがしはこの近辺を領地とする薮蚊一族の頭領にして総大将軍。一族を代表し、挨拶いたしたく参上つかまつりました」


 蚊の将軍とは、なるほど、不自然な出で立ちも納得してしまえるというものだ。蚊はメスの方が圧倒的に体格が大きいので、女性が頭領というのもよく解る。蚊がいなくなったのは、彼女が仲間に号令でもかけたからだろうか。


 「はぁ」


 ぼりぼり。相手は馬鹿丁寧に挨拶してくれているのに、僕はむずむずする二の腕をかきながら。


 「蚊ほどの命とは申しますが、それでも我らにも五分の魂はございましてな、もう秋も深く、我ら血を吸うて卵を産み、次の世代に冬を越してもらわねばなりませぬ」


 「それじゃあ僕に、あなた方のディナーとしておとなしく皿の上に座っておれ、と」


 「さようにございます」


 「やなこった」


 誰が血を吸われて嬉しいもんか。


 「そこをどうかひらにご堪忍を。実のところを申しますれば、我ら今まさに領土争いの真っ最中なのでございます。今年はもう合戦はないと思われますが、将来の戦いのため子は多ければ多いほどよろしいかと」


 よくよく見れば、蚊の女将軍の背後には、僕が未だかつて見たことのない猛烈な蚊柱が立っている。蚊柱を形成するのはすべてオスで、その中に入っていっても別段血を吸われることはないと聞くが、今回の場合、血は吸われなくても窒息死しそうだ。


 また将軍の両脇には、大型の、つまりメスの蚊がずらーりと並んでぶんぶん羽音を立てていた。一族勢揃いして、将軍の号令があれば、いっせいに僕に襲いかかろうという態勢だ。


 蚊の軍勢ざっと一万五千(いや、数え方なんか知らないけどさ)。これが横隊を組んで準備万端将軍の采配を待っている。風が途切れると、ぶぅんぶぅんと羽音が竹をも震わせて聞こえてくる。……これもやはり、多勢に無勢なのだろうか?


 「話し合いましょう、話せば解る」


 「よい心がけでございますな」


 話し合うたって何を話し合うべきかと、困り果ててその場に座り込んだ。


 とそのとき、座り込むときに踏んづけたか、荷袋の中のトントンがふみゃおと声を挙げた。


 「おぉ!」


 女将軍が前で手を合わせて嬉しそうに言った。


 「我ら、ネコでもいっこうにかまいませぬぞ」


 「やなこった!」


 あんな大軍勢に血を吸われたら、小柄なトントンは出血多量で死んでしまう。


 さぁどうしよう。言葉遣いは丁寧だが、これは大脅迫だ。しかも寿命の短い彼女らにとっては、この脅迫には一族の未来、子々孫々へのバトンがかかっている。そう簡単にあきらめてはくれないだろう。速い話僕がおとなしく折れて、血を吸われてしまうのが一番ことが円満に収まるんだが、そんなの、絶対、いやだ。お断りだ。


 とはいえ、真っ向から叩きつぶしに行けば返り討ちが待つだけだ。体格差こそあれ、一対一万五千で戦って勝てるのは魔術師ぐらいだ。だいたい巨人というのは、どんなおとぎ話でも、蜂のひと刺しで撃退されてしまうものなのだ。蚊の二三十刺しなんて考えるだけで気分が悪い。


 三十六計逃げるしかないんだが、いかんせん僕の足が丈夫といっても、羽持つ虫にはかなうまい。それにこの調子で走って逃げたりしたら、ぶよの将軍だのあぶの将軍だの、どんな縄張りに引っかかるかしれたもんじゃない。


 そんなことを考えながら僕がじりじりと後ろに退がっていくと、蚊の将軍が手を伸ばし、焦りを含んだ大声を挙げた。


 「あぃや待ちなされ! それ以上退がってはなりませぬ!」


 「え?」


 言われながら、僕はさらにもう一歩、退がってしまった。


 途端に後ろから大声がした。


 「ほーっほほほほほ! このときを待っておりましてよ!」


 びっくりして振り向くと、今度はそこに、長い波打つ金髪の、奇妙な服装の女が、右手に鞭を持ち、もう片方の手をぴしぴしと叩きながら立っていた。彼女も薮の中から現れたようだが、やはり音はしなかった。


 女は、やせぎすな背格好と、眼光の鋭さは蚊の将軍と同じだが、頬筋のはっきりした顔立ち、そして、背筋をびっちりと伸ばして立っている様子が、むしろひょろ長いという印象を与える。口元は肉感があって魅惑的だが、なで肩という以外、胸も尻も女性らしい体格をしていないので、ちっとも色気を感じない。


 それに、何だこの服装。月光をやたらてらてらとはね返す生地でできた、体にぴったりした金ボタンで襟の大きいダブルの上着と、折り目正しい長ズボン。いずれも革製の、金のバッジがついた帽子と金のバックルがついたベルトと金の拍車がついた革靴を身に着けて、これまた月光をぴかぴかはね返すもんだから、なんだか細工の入った人形を見ているみたいだ。


 女は、きんきん響く声でのたまった。


 「あたくしはこの近辺を領土とする薮蚊民国の国家元首にして全軍の総帥! ここなヒトは、今まさに我が領土内に入りましたわ! ですから領有権は我々にあります。お解りかしら?」


 他にどんな縄張りがあるかと思っていたら、なんと今度は総帥だ。その周囲にはやはり横隊を組んで、蚊がずらーりと控えている。うっひゃあ。これは両側から挟みうちになってしまった。


 「何を申されるか?! まだそなたらの領地には入っておらぬ! そなたよもや先日交わしたばかりの協定、忘れたわけではあるまいな?!」


 「貴女の目こそ節穴じゃございませんこと? もうとうに我が国土に入っておりますわ! おとなしく引き下がった方が身のためでしてよ!」


 どうやら、蚊の将軍と領地争いをしているのは蚊の総帥ということらしい。そして僕は、今まさに両者の領地の境界線のど真ん中に立っているらしいのだ。この二者の仲が悪くてよかった。そうでなければ、僕はおそらく降伏して、右半身を蚊の将軍の配下に、左半身を蚊の総帥の配下に差し出さざるを得なかったろうから。


 「そなたよもや、この期に及んで我らと一戦交えるつもりか? 我らに弓引くならば、総力もて完羽なきまでにやりこめてくれる! 覚悟いたせ!」


 「ほーほほほ、先の一戦、ほうほうの体で逃げ帰ったのはどーちらさまでしたかしら? そのお高い口も羽も、乾いたボウフラみたいにして差し上げましてよ!」


 「糧がかからば話は別! ここで吸わざれば我が一族に未来なし! 我らが士気は並大抵のものではないぞ!」


 「それはこちらも同じこと! 国民の渇き満たすため、負けるわけにはいきませんわ!」


 とうとう食糧にされてしまった。というより、それが本来の蚊の姿勢というものだろう。今までが丁重すぎただけだ。


 将軍と総帥はしばらく威信をかけて睨み合っていたが、


 「……総帥、ここはちと歩み寄らんか」


 やがて将軍がえらいことを思い出した。


 「そのヒトはネコを連れてござる。そちらはそなたらに譲ろう。だがヒトからは手を引いていただく。いかがか?」


 「ネコ……悪くはない提案ね。けれど我が国民もヒトの血は久しく吸っていませんわ。せめて足くらいはいただきたいところですわね」


 当事者抜きの勝手な折衝が始まった。僕の立場は何にもなしだ。競りにかけられた牛も、こんな気分を味わっているのだろうか。


 でも僕には牛よりは知恵があるはずだ。二者が言い合っている間に、何とか逃げ出せないものだろうか。せっぱ詰まってしまったせいかかゆさもどこへやら、僕は頭をめぐらせて逃げ道を算段した。


 右を見て、左を見て、延々と続く薮。街道の方へ向かえばいいだろうか。それより逃げたとき、この蚊の大群をどうやって振り切るか。さっきの繰り返しになるが、振り切れたところで、次にどんな縄張りに引っかかるか、知れたものではないのだ。


 ……待てよ。この二者が言い争っているということは。


 「では左足は差し上げるということで」


 「お互いいくさはしないに越したことはありませんからね」


 僕はそろ、そろ、と気づかれないように数歩退いてから、将軍と総帥に背を向けて、脱兎のごとく走り出した。街道の方、逃げやすい方角ではなく、むしろじめじめした薮の深く奥へと。


 「あっ、こら、待たれよ!」


 「そっちへ行かれては困ります! そっちは……」


 薮をかきわけ、かきわけ、むりやり進んでいく。すると……。


 思った通りだ!


 「私は蚊の大統領! そのヒトは我が領土にぃ……」


 シルクハットにタキシードにステッキを持った、今にも足を上げて躍り出しそうなブルネットのお嬢さん。


 「余は蚊の女王であるぞ。ヒトは我々がいただく!」


 金の冠と腰の宝剣がまぶしいが、それ以外はいたって質素な顔だけまるまると太った老婆。


 「こちとら蚊の組長! ウチのシマに入ったからには他の奴には手を出させねぇぜ!」


 「当方蚊の社長であります! 今後一切この件に関しては我が社が……」


 「わらわは蚊の教祖教祖教祖わらわにしたがえしたがえしたがえ」


 出るわ出るわ。


 僕は薮の中をあっちへ走り、こっちへ走り、次から次へと蚊たちの縄張りを荒らして回った。途端に生じる縄張り争いと、僕の争奪戦。どの群も、年を越して世代をつなぐためたくさんの卵を産みたいという思惑で、他の群には負けられぬと殺気だっていた。


 いくつもの蚊柱が、激突してはふくれあがる。僕の方へ突進はしてくるものの、その中は大混乱の大乱闘の蚊の世界大戦で、やはり追いついてはこれないのだ。


 まっすぐに飛んできて、僕に取り付こうとするメスの蚊も少なくはなかったが、振り払うとこの巨大な蚊柱の中に取り込まれてしまう、すると、もはや出てこれない。


 すべての境界線は消え失せ、協定も契約も法律もみな破棄された。暴動だ。万蚊の万蚊に対する戦争だ。オス同士メス同士は戦い蹴散らし合い、オスメス同士がぶつかりあうと交尾する。羽音のすさまじさだけでそんな様子が伝わってくる。羽音そのものが、断末魔と化していく。狙い通りになったのはいいが、これは追いつかれたらただでは済まないぞ。


 そろそろ薮を抜けて安全なところへ行かなくては。どの蚊の縄張りでもないところへ。僕は走りながら荷袋の口を緩めた。閉じこめられていたトントンがぽぅんと飛び出る。そしてすたりと地面に下りると、薮の朽ち葉を踏んで僕の前を走り出した。トントンは鼻が利く。少なくとも、僕よりは。頼むよ!


 トントンを追って走ると、やがて竹薮が切れた。雑草生え放題の休耕地を踏み越えてゆくと、一軒の農家が建っていた。ひと気がない。玄関には大きな南京錠がぶら下がっていて、どうやら誰も住んでいないようだ。トントンは玄関には見向きもせずに走り続けた。


 さらに追って建物の横手に回ると、小さな納屋があった。トントンはこの納屋の前で急ブレーキをかけた。


 日に真っ黒に焼け、使われている釘はすっかり錆び付いて、雪なんか積もったらつぶれてしまいそうななりだが、鍵はないし、何より造りが丁寧で隙間らしい隙間が見当たらない。僕はその中に飛び込み、中からしっかりと棒をつっかえた。


 中は当然ながら真っ暗だった。目が慣れても、ほとんど何も見えてこない。完全な闇に直面すると、人間はおよそおののき震えるものだが、今回ばかりは違う。月影さやかな夜、暗闇はやはり隙間がないことを示す。奥の方には草か何かが積んであるらしく、植物的な芳香が辺りに漂っているが、羽音はもちろん地虫のはう音もしない。


 よし、安全だ。これで一安心。ここで、彼女らがあきらめて縄張りに帰るまで粘ろう。でも、蚊があきらめるときって、いつなんだろう……。


 「やぁいやい!」


 外で蚊の将軍の声がした。


 「よくも我らを愚弄したな! この借りは死ぬまで血を吸って返させてもらうぞ!」


 総帥の声もした。


 「貴方は完全にホーイされています! おとなしく裸になって出てきなさーいっ!」


 僕は、おそるおそる外に声をかけた。


 「あの、……縄張りは?」


 「ふふふふふふふふふふふふふふ」


 外でいっせいに不気味な笑い声がした。将軍も総帥も大統領も大王も組長も社長も教祖もみな笑っている。


 将軍が言った。


 「ここは非武装地帯でござる。この近辺では数少ないヒトの血が味わえる場所―――ここだけは、どこの縄張りでもなく、どこの者も自由に入って自由に血を吸ってよいことになっておるのだ」


 だからってあれほどの大激戦をやっていた者同士が、こうもあっさり妥結していいのか。いいのかもしれない。だって蚊は寿命が短いから。人間が五十年かかってする和解も、蚊なら五分で済むことだって、十分あり得る。


 「しかるにこの夏は……とうとうこの家からヒトが引き払ってしまった……どうやらあまりに我ら蚊が多いので、ここでの農作をやめてしまったようなのだ……」


 そりゃそうだ。日ごとにこんな大軍勢に囲まれては、外に出るのもおっくうだろう。蚊は慣れれば平気になるともいうが、その境地に達していない僕にすれば、去年までこれに堪えていたことの方が奇ッ怪だ。どうすればここに住めるんだろう。


 みゅう、と奥の方から声がした。トントンが呼んでいる。闇夜の黒猫だから、何も見えやしないけれど。


 手探り足探りで歩いてゆくと、足が何かを踏んづけた。かさり、と音がして、僕はそれを完全に踏みつぶしてしまった。僕が力を入れたから壊れたのではなく、探りをかけてゆらゆらさせていた足が触れたことで、崩れてしまった、そんな感触だった。幻の城というのは、そうやって消えるのかもしれない、だが幻でない証拠に、さっきから気づいていた芳香が、ふわっと急に強くなった。


 これは……思い出した。嗅いだことのある香りだ。ふるさとの香りだ。ほとんど意識することはないけど、夏になると、誰もが身に着けていた……トントンがまた、みゅうと鳴いた。


 除虫菊だ。除虫菊の抜き取られた株が、乾燥させた状態で積んであるのだ。これを砕いて粉にし、松脂と練り込む。それを渦状に巻いたものが、蚊取り線香だ。夏、特に夕暮れ、農作業をする者は、みなそれを容器に入れて腰にとりつけるのだ。


 後ろに何者かの気配が突然現れた。


 「く……やっと入り込めたようでござるな」


 蚊の将軍だ。


 「この屋敷は隙間がのうて以前より蚊に不親切と思っておったが、納屋もそうだったとは」


 誰がこんなところで隙間のある家を建てるものか。


 将軍は将軍といえどしょせんは蚊、扉をぶち開けたりこの納屋を壊したりすることはできなかったようだ。事実さっきから彼女らは大音声に呼ばわっているが、扉を叩くことはしていない。それで、隙間を探してどうにか入り込もうとしていたわけだ。


 「うぬ……ここ、何か妙な……。だが、臭う、臭う、ヒトの臭い。ここまで来て吸わずにおくものか」


 どこか解らないが、わずかな隙間からもぐり込んできたのは、蚊の将軍だけではないらしい。闇の中を、ぷうぅぷうぅぅんと複数の羽音が飛び回る。迫ってくる。いつ聞いてもいやな音だ!


 僕は懐を探った。火口、火口、どこだ。あった。あぁ、ごめんなさい。ここの方には申し訳ないけど、除虫菊ひとやま、お借りします。


 かち、かち、暗闇の中、完全手探り状態で、火打ち石を叩いた。火口に火が移る、すかさず僕はかさかさに乾いた除虫菊の花をもいで、手でぼろぼろにほぐしながら火にくべた。わずかな火の光の中で、煙がぼそぼそと上がる。


 狭い納屋の中、効果はてきめんだった。


 「なななななんだこの煙はっ。いかん、撤収! 総員撤収!」


 時すでに遅し。羽音は、聞こえなくなっていった。


 「や、やりおったな、ヒト、ヒトめぇ! 恨む、恨む、恨むぞよぉっ!」


 薄暗闇の中でもがく蚊の将軍の影。あぁ将軍、君は蚊なんだから人の悲鳴を挙げないでくれ。聞くに堪えない。だが、五分の魂がかたち作った執念は、僕の人の背に足りない臆病と、知恵の火と煙の前に敗れ、やがて、姿も声も静かに闇に溶けていった。蚊を殺すなんていつものことなのに、今日ばかりは切なさを感じずにはおれない。


 だが僕は、もう少し臆病なままの鬼でいなければならない。僕は体を伏せ煙を避けてしばらく待った。そして納屋中に煙が充満するところ、唐突に納屋の戸を蹴破って、トントンと一緒に外に飛び出した。流れ込むまぶしいほどの月光。


 目の前に総帥が立っていた。一瞬顔をほころばせて、そのままひきつらせた。悔しそうに苦しげに片手は胸を押さえ、もう片手を前に出し、だが届かないまま動けないのだった。二度三度せき込んだ後、


 「く、く、悔しいィィィッ! 覚えておれ!」


 捨てゼリフを残して、彼女は背を向け、いっさんに逃げ出していった。周囲でも同様に、蚊の軍勢はてんでに身を翻して逃げていった。あるいは、納屋の戸口からもうもうとわき出す煙に取り込まれて、ゆるゆる落ちてしまうのだった。


 ものの数分も経たぬうちに、辺りから羽音は消え失せた。




 ふわぁ。勝利とは、かくもむなしいものか。僕は戸口の横の壁を背にして、へたりこんだ。みゅー。トントンもそう思ったのだろうか、膝に上がって丸くなった。


 しばらく月夜の黒猫のつやつや光る背を撫でてやった。


 と、突然、トントンは後足を上げると耳の後ろ辺りを器用に掻いた。やはりどこか食われたか、と思ったら、何かがぽんと跳ねて僕の腕に移った。蚤だ。


 除虫菊は蚤にも効果があるというから、あれだけいぶされてまだがんばっているというのは、相当に根性のある蚤なのかもしれない。ふっと、もしかしてこいつは蚤の中の蚤、偉大なる蚤大王様ではないかと思ってしまった。


 とんでもないこった、出てこられたらたまらんとぶるぶる頭を振ったが、僕は、どこか片隅で、猫の背に広がる蚤の王国を夢想していた。


 夢想しながら、僕の腕に止まった蚤を、ぷちり、と潰した。ぷちりと血が弾けた。


 「こんなもんなのかな、ねぇ、トントン?」


 トントンは大きなあくびをするだけだった。

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