第40話 彫金師

 ホルシュタイン伯爵は才気にあふれ、パワフルで行動力あるお方だ。伯爵がやる、と決断したならば事は大きく動く。印刷技術が軌道に乗りそうだ、と報告すれば五日のうちに人が派遣されてきた。


「鍛冶ギルドから派遣されてきました。彫金師見習いのエッカルトです」

「同じくエーリクです」


 彫金師を引き抜いたら問題になるか、などと考えていたが、伯爵が声をかければ是非もなく。流石に一人前の彫金師を引き抜くことはできなかったが、前途有望な若手を引っ張ってきたようだ。


 二人とも年のころは16,7といったところだろうか。表情にあどけなさが残り、顔にはそばかす。しかし、その手は黒ずんだ職人の手である。相応の修行をしてきているのだろう。



「伯爵から話は聞いている。魔術師のアラン・トゥルニエだ。君たちには重要な仕事をして貰うことになる。報酬は良いが機密の多い仕事だ。口は堅いほうかね?」


 軽く脅しをかけて揺さぶってみるが、身じろぎもしない。若人の瞳は燃えているかのようだった。


「よろしい。彫金師の君たちが突然呼び出されて魔術師の元に来たのだから訳が分からないかと思うが、安心したまえ。君たちの仕事はちゃんと彫金だ。魔法陣を彫ってもらうことになる」


 彫金、と聞いたときに瞳に輝くものがあった。職人の世界は上が詰まっているため、なかなか仕事にありつけないと聞く。下働きをしつつ親方から技を盗み、腕を磨いて、そしてじっとポジションが空くことを待たねばならない。


 それならば、と新しい「枠」に賭けてみようという彼らだったが、彫金師として修行をしてきたのだ、その技にはある程度の自信はある、しかし、自らが積み上げたものがこの新しい「枠」の仕事でちゃんと活かせるのかが不安だったわけである。


「紹介しよう。印刷技師のマリエッタ先生だ」

「マリエッタです。よろしく」


 現代において印刷というのは庶民には馴染みの少ない技術である。聖書が印刷によって作られるようになってしばらくたつが、手描き筆写のものと比べて安いとは言え、本というのはやはり高い。庶民の暮らしに印刷というものは接点のないところだった。百聞は一見にかず。マリエッタ研究室へと移動すると、凹版印刷を実際に見てもらう。


「このように、銅板に彫った溝にインクを流し込んだ後、余分なインクを拭い去り、紙に押し付けることで銅板に彫られた模様を複写するわけです」

「君たちにはこの印刷の原版を彫ってもらう。どうだ? できそうか?」


「あの……!」

 エッカルトが疑問を口にする。

「文様を彫ることは出来ますが、この文様は一体なんなのでしょう? 僕たちがやろうとしていることは一体……!?」


「もっともな疑問だ。これは魔法陣だ。特殊なインクを用いて特殊な文様を描く。そこに手のひらから魔力を流し込むことでさまざまな計算を行うことができる」


「計算?」


「そう、計算だ。1個3アス銅貨のパンが1ダースで……36アス、つまり2セステルティウス大銅貨と4アス、とこういった計算を行うことができる。商人たちが使っているのを見たことがないか? まだ高価だからな。店頭で使うことはないか」


 ふたりとも初めて見たのだろう。魔法陣の実演を食い入るように見ていた。


「印刷機も魔法陣もまだ一部でしか使われていないからな。機密というのはまさにこれらのことだ。とはいえ、君たちを監禁しようってわけじゃない。寮で暮らしてもらうが、休日にはアカデミーから外出してもいい。ただ、外で印刷機と魔法陣の話はしてはいけない。そうだな、アカデミーで実験器具を作る仕事をしている、とでも言ってごまかしておきたまえ」


「私の本業は印刷技師ですから、原版の作成はあなた達の方がうまくやれると期待しています。印刷のための彫金ですから、刷ったときにちゃんと線がでるかが大事です。このあたりは試行錯誤してもらうことになるかもしれませんね。魔法陣の文様は精緻な上、線が途切れるとうまく動かないですから」


 マリエッタ先生は凹版の原版について解説し、彼らに作業机を割り当てた。個人の作業スペースが与えられた彼らは待遇の良さに驚いているようだった。いきなり親方になったようなものである。


「彫って欲しい原版はたくさんある。作業する上で必要なものがあったら遠慮なく相談するように。道具は君たちの持ち込み品を使ってくれていいが、支度金を渡しておくから必要な道具があれば準備しておいてくれ」


 彫金が本職のエッカルトとエーリクには期待しよう。あの三角関数表が印刷で量産できるようになったらどれほど楽か。演算魔法陣の高機能量産化も目指せるんじゃないか、などと私は夢を膨らませていた。





 翌日、賑やかになったマリエッタ研究室を覗きに行く。


「あ、アラン先生。ようこそ。見てくださいよ、二人とも彫金の腕は流石ですよ」


 マリエッタ先生に2進数1桁の演算魔法陣を刷ったものを渡される。来て早々、これを彫ったのか。刷り上がった魔法陣に魔力を通してみても断線などはなく綺麗に動いている。


「流石だな。すでに習作が魔法陣としてちゃんと動くじゃないか。これなら複雑なものも任せれそうだな」


 さっそく三角関数表を持ち出してみる。


「アラン先生! もうちょっと小さいのから行きましょうよ!」


 ダメか。2進数20桁10進数6桁+分数部20桁小数6桁の演算回路。これはどうだ。


「大きすぎます! 習作の次にやるには大きすぎです!」


 しょうがない。1桁の数字表示用ディスプレイでいくか。


「いいのがあるじゃないですか」


「本当はこれ、12個ぐらい並べて使いたいんだ。原版ひとつで並べて印刷することはできるだろうか?」


「出来ますけど……。印刷側が手間ですね。これはどのぐらい必要になるのですか?」


「多いなあ。演算魔法陣やその他でも使われるからとにかく大量だ。数字を表示する部分だからね。桁数違いのものが必要になると思うから、桁数の少ないものから試しに作って、慣れたら桁数が多いやつにかかって貰おうか。2進10進変換魔法陣もあわせたものが必要になるだろうから、こっちで版下になる魔法陣を用意しよう」


 印刷関連は、人気商品であるところの演算魔法陣を優先することにした。

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