第27話 血塗られたインク

「なるほど。この微細な文様と、血で作られたインクですか」

 印刷技師マリエッタは魔法陣を印刷するための課題を洗い出していた。活版印刷は南方の都市ニュルンベルクで始まったと考えている人が多いが、それは多分に誤解を含んでいる。印刷による聖書の発行が初めてなされたのがニュルンベルクではあるが、活字も凸版印刷も東方から伝わった既知きちの技術であった。


 ニュルンベルクの印刷技師の始祖とされるヨハネスは、この技術を実用レベルに押し上げたことによりとされる。彼の功績は金属活字において新たな合金を用いたことと、パンチ法という活字の大量生産技術を確立したこと、金属活字に適した油性インクを採用したことが挙げられる。印章なんぞはるか古代から存在しているわけで、それをただ集めて印刷技術でござい、という単純なものではない。改良を積み重ねて実用化に至らしめたところが偉業なのであった。


 魔法陣に用いられる魔術ゲートの文様は細かく複雑である。これを活字にすることは可能ではあろうが、魔術師が手書きで筆写するものほど精緻にはなるまい。回路のサイズが大きくなるのはやむを得ないが、試作ではそこは目をつむることとした。


 魔術ゲートと魔術ゲートを結ぶ配線を組版でやることは難しい。ここは一番労力のかかる魔術ゲートを印刷でやれるだけやって、配線は手書きするというハイブリッド作成法で割り切ることとする。


 そして、試作でどうしてもクリアしておきたい課題は魔導インクを印刷に適したものへ改良することだった。魔導インクは動物の血から作られる。血に凝固防止のためのスイバ草の煮汁シュウ酸と、保存料としての塩、インクとしての粘りを持たせるための膠を混ぜる――というのが現在の一般的な魔導インクの作り方であった。


「ひとまずは今の魔導インクをそのまま使ってみましょう」

 当然、失敗するだろうとは思いつつも、まずはどのように失敗するのかを観察することが大事である。試行錯誤のプロセスで計画的にうまく失敗をしなくてはならない。


 アラン研究室で新人院生と並んで簡単な魔術ゲートの手ほどきを受ける。ごくごく簡単な1桁の加算回路を習い、パピルスに大写しに筆写して自分の研究室へと戻る。まずは魔術ゲートの活字作成だ。この活字は試作なので量産向きのパンチ法は用いない。入門用に大きく描かれた魔術ゲートを板に裏返しにはりつけ、線の部分を残すように印刀で掘りこんでいく。


 木枠に粘土を混ぜた砂を詰め、軽く抑えてならしておく。そこに木に彫った魔術ゲートを押し付け鋳型を作る。そこに錫、鉛、アンチモンの合金を溶かして流し込む。これは活字合金と呼ばれ非常に溶けやすい240度ほど。砂で作った鋳型は一度使うと壊れてしまう。量産化する場合は固い金属で作られた母型で銅板に型を作り、そこに活字合金を流し込んで作る。このパンチ法を用いれば同じ母型で量産することができる。今回は試作品なのでそうした量産化技法はお預けだ。


 木彫りの母型と砂の鋳型でも試作の魔術ゲート数個の活字を作るぐらいなら十分だ。これを木枠で所定の配置で固定し、仮の組版としよう。この組版を印字面を上にして印刷機に固定する。そして布に魔導インクを含ませて、まんべんなく組版にインクをのせていく。その上に枠にはめた紙をのせ、プレス機を使って均等にす。


 さて、その仕上がりは……


「アラン先生、試し刷りをしたものを持ってきたのですが、見てもらえますか?」

 アラン研究室を訪ねると試作品を広げた。アラン先生はじめ、興味を持った院生なども集まってくる。


「ふーむ。これはダメだね……」

「はい。試しに普通の魔導インクをそのまま使ってみました。インクが組版の合金と馴染まず弾いてしまうので、御覧の通り不鮮明になってしまいます」


 金属活字と油性インクだからこそ綺麗な印刷が可能となる。木版画のようなやり方だと線が途切れがちになることは想定された。魔法陣の印刷を目論むのであれば、魔導インクの改良は必須事項だろう。かすれた魔導インクでは魔力をうまく通さない。回路が途切れてしまえば用をなさないので鮮明な印刷ができねば役には立たなかった。


「やはり、インクの研究をしないといけませんね」

「この回路が鮮明に印刷できれば、後は配線を描くだけで魔法陣が完成するんでしょう?なんとかして実用化したいところだね」

 魔導インクは動物の血であるということが厄介であった。血と油は混ざらない。油性魔導インクというのは容易ならざる挑戦だった。


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 前回ヨハネス・グーテンベルクについて述べましたが、彼の成果は活字を改良したことと、油性インクを採用したことで総合的に印刷技術の工業的な実用化にこぎつけたことだと言われます。


 活字が産まれたのは中国らしく、シルクロードを通ってヨーロッパにまで伝わったのでしょう。中華圏では漢字の影響もあり、どうしても活版印刷をやるには不利だったようです。ヨーロッパのアルファベットが活版印刷には非常に都合がよかったのでしょうね。


 アンチモンという金属はあまり馴染みがないものですが、顔料などに使われたりと古くから利用の実績はあるようです。当時の人たちが金属についてどこまで理解していたのでしょうか?不思議なところですね。

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