第26話 伯爵のお土産

 ここのところ随分と日が短くなってきた。朝は薄暗く、日が暮れるのは早い。魔術師は紙とペンの仕事が中心となるため、日が暮れると作業は難しい。暗い中、明かりを灯してまで作業をするというのはコスト的にも文化的にも尋常ではない。必然、冬になると生産効率は落ちてしまう。


 そんなおり、レンズブルクにホルシュタイン伯爵一行の馬車が戻ってきた。レンズブルク市民は外遊に出ていた伯爵の無事を見届け安堵する。レンズブルク城と周辺の行政部門は留守の間の事項を連絡すべく慌ただしく働き始めた。まあ、アカデミーの研究員らにしてみれば、何かあるにせよ政務が落ち着いてからだろう、と暢気に構えていた。


 つまるところ私は油断していたのである。




「アラン!待っていたぞ!」

 伯爵に呼び出されたのはその日の夕方だった。まさか着いたその日に呼び出されるとは! 馬車での長旅の直後だというのに疲れた様子を見せない。このお方は本当にパワフルである。そんな伯爵は上機嫌なようであった。


「アラン。紹介しよう。印刷技師のマリエッタ君だ」

「はじめまして、アラン先生。よろしくお願いします」


 栗色のゆるくウェーブした髪。小麦色の肌の美女であった。突然のことで事情がうまくのみ込めない。突然の呼び出しはこの人に会わせるためだったのか……?

「よ、よろしくお願いします……?」


 伯爵はしてやったりという表情でこちらを見ていた。ん……? 印刷技師と言ったか?もしや……

「ああ。印刷技師だ。彼女を口説くのには苦労したよ」

「いえっ!そんな、滅相もない!」

 おおっぴらには言えないが、おそらく伯爵は暗号魔法陣の対価として交渉したのだろう。しかし、その話はここでは出来ない。ふと伯爵の様子を伺うと目配せされた。ええ、わかりましたよ、伯爵。


「アラン君にもマリエッタ君にも注意しておくことがある。彼女を引き抜くにあたって条件がつけられてしまった。心して聞いてくれ。。分かるな?もともと印刷技術は教会派の庇護下にある。向こうのビジネスの領分を侵すことはできないんだ」

 マリエッタは寂しそうな表情を見せる。


 独立を志すマリエッタをスカウトするにあたって教会派貴族からの反対にあった。現代において印刷された本といえば聖書である。そもそも印刷というのは量産して初めて採算がとれるものであった。量産するにはそもそも需要が高くなくてはならない。需要が高い本といえば聖書であった。


 印刷ではない、写本を1冊を仕上げるには写字生スクライブが半年~1年ほどかけて作業する必要があったが、印刷機は生産効率を10倍にすることが出来た。しかし、半年の1/10の20日程で出来るなどというほど話は単純ではない。


 印刷のための組版を作るのにまず時間がかかる。仮に組版ができているものだとしよう。印刷機の組版をセットしてインクをつけ、紙をはさんで圧力をかける。圧力をかけるのはぶどうの圧搾の機械と一緒だ。らせん状に巻かれた大きなネジで締め付けるのである。組版を取り替えるのには手間がかかるので同じページを例えば50枚まとめて刷る。そののち別の組版に差し替えてまた50枚まとめて刷る。こうした作業を全ページ分行い、製本すると半年で50冊できる。しかし、写字生が一人作業なのに対して、印刷は複数人で作業するものだから、一人当たりの生産量で計算すると10倍程度となる、というわけである。


 ある工房では6機の印刷機を用いて職人3人で1日に300枚を刷ることができたという。ページ数で言えば写字生より断然多くのページを作り出せる。しかし、作り始めてから出来上がるまでの時間リードタイムを言えば、腕の良い写字生が半年で作るのとそう変わらない。本は皮表紙から金文字のタイトルや装飾など、いろいろと加工が施されることが多いが、そうした工程については写本と印刷本ではなんら変わるところはなかった。


 そして、なにより問題となるのは組版を作ることに時間と金が掛かることであった。はるか東方から伝わった活字組版の技術は、協会派の領地ニュルンベルクにて合金活字と油性インクの組み合わせをもって完成をみる。だが、実際に聖書を印刷するまでは長い時間がかかった。聖書全ページ分の金属活字を作り、それを組み上げて組版を作るというのは恐ろしいほどの初期投資を必要としたのである。


 話はマリエッタの引き抜きに戻る。書物の印刷をしないという約束は、こうした聖書の印刷にかかわる初期投資、労力、採算性といったものを勘案すれば、事実上は流出した印刷技術をビジネス足りえないものにする強烈な足枷であった。


「なるほど……。しかし……印刷するものが書物でなければ問題ないということですか? 例えば魔法陣であれば問題ない?」

「そのとおりだ!」


 伯爵は印刷技術を手にするために謀略を巡らせたようだ。以前、伯爵との会食にて、印刷技術で魔法陣が刷れれば……という可能性の話を吹き込んだのは私なのだが、印刷技術を実際に導入なんてのは夢のような話だと思っていた。伯爵がいかにやり手だとしても、協会派の独占技術を引っ張ってくるなど、無理なものは無理だろうと思っていたのである。


「そういうわけで、マリエッタ君をアカデミーの研究員として迎えるわけだが……。アラン、君が面倒を見てやってくれ」

「分かりました……。えっと。マリエッタ……先生?よろしくお願いしますね」

「え!?いや、先生なんてとんでもないです!ただのマリエッタで十分ですからッ!」

「そうはいかない。マリエッタ君。研究員の地位は安くはないのだ。あなたは腕を見込まれてここにいる。学生達もいる手前、立場を忘れないようにしたまえ」


 彼女には印刷技術を魔法陣に適用するための研究をしてもらうことになる、と伯爵は言うと彼女の指揮権を私にゆだねた。

「書物でも魔法陣でもない、印刷技術の活用法が見つかったらその時は言いたまえ。協会派との約束もある。目下、魔法陣の印刷以外には手を出せないと思うが、それはマリエッタ君、君に魔法陣専属となれ、というわけではない。君が所属するのはアカデミーなのだからね。さて、私からは以上だ。日も暮れたことだ、アラン。アカデミーの宿舎まで送って行ってくれたまえ。頼んだよ」

「分かりました、伯爵」

 マリエッタを連れてレンズブルク城を出る。暗号機の報酬で欲しいものがあるか?と言われた時には欲しいとは言っても夢物語だろうと思っていた印刷技術が手の届くところにやってきた。マリエッタの不安を和らげようと、レンズブルクのアカデミーは良いところですよ、なんて世間話をしながら宿舎へと戻った。


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 伯爵のお土産は印刷技術でした。印刷技術と言えばグーテンベルク(Johannes Gensfleisch zur Laden zum Gutenberg、1398年頃 - 1468年)が有名ですが、彼が印刷機そのものや活字を発明したというわけではないようです。印刷技術の実用化に成功したという評価なのですが、詳しい話はまた後程。


 グーテンベルクは印刷事業をやるのに借金をしていたのですが、別の用途に使った上に返済の意志がない、と裁判で訴えられ、その裁判で負けてしまいます。手持ちの資金がなかったグーテンベルクは、印刷機と活字、印刷済みの聖書といったものを差し押さえられてしまいます。グーテンベルクに金を貸していたヨハン・フストは差し押さえた印刷事業を拡大して初期の印刷事業を支えた実業家として名を残しています。

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