第20話 困憊

 私、魔術師アラン・トゥルニエは焦っていた。かつてない規模の魔法陣の開発にあたり、アカデミーの院生を含めた開発チームをつくりことにあたっていたが、多人数での開発に難儀していた。日中は院生への指示だしとトラブルの解決、各魔法陣を結合するための調整にばかり時間を取られ、自分自身で描こうとしていた日食演算回路はラフ書きのままなかなか手を付けられなかった。業を煮やして、ついに菜種油を買い込んで日没後にチームが解散してからランプの明かりで回路を描き始めるに至る。暗号機の人には言えない仕事で報酬が約束されているので元手の心配がなかったとはいえ、尋常ではない。それは自覚している。


 プロジェクトを開始して以来ここ半月ほどは日中は多忙を極め、お昼に食堂でする食事だけが憩いであった。アカデミーは食堂があって昼と夜には食事にありつける。庶民の食事はもっぱらパンで、肉は贅沢品といったところだが、伯爵のはからいでアカデミーは庶民よりはいくらかマシな食事が提供されていた。というのも、研究にのめりこんでろくに食事もしない研究員が多発して見かねた伯爵が研究員の生活改善を指示したという。おおむね私のような人間のせいである。


「アラン先生……。大丈夫ですか?顔色が悪いですよ?」

 天文学者のアンネ先生だ。暦魔法陣の天文学監修をやってもらっているが、基礎設計が終わってからはしばらくは関りがなかった。しかしそんなに疲れた顔をしてるのだろうか。

「ちゃんと休んでんのか?アンデッドみたいな顔しやがって」

さらに追い打ちで通りがかった建築家バルトロメオ先生にもヤバいといわれる。

「いえ、ちょっと昨晩根を詰めすぎまして……。ははは……」

「夜にまで作業してるんですか!?」

しまった、やぶへびだ。


「だいたいお前、人をつかって作業をやるのに人がそんなに働いてくれはしないだろう?建築の人足なんてものはさぼるのが常だぞ。雨が降れば休みだし、風が吹けば様子見だ」

「……魔術師はある種の書類仕事ですからね……。ほら、建築現場と違って事故で人死にも出ませんし!」

「何言ってるんですか!天文学の観測だって休み休みやるもんですよ!ぶっ通しで寝ないで観測していた東方の学者がふらっと倒れてそれっきり目を覚まさなかったって話もあるんですから!」


 アカデミーの研究員同僚達にプロジェクトの進め方を問い詰められる。

「さてはアラン、チームで仕事やった経験ないな?」

いろいろと問い詰められた挙句、バルトロメオ先生にダメだしされてしまった。

「恥ずかしながら……。魔術師は個人主義かもしれませんね……」

やれやれ、と呆れられてしまう。


「お前のチームが働き者というよりかは、魔術馬鹿の集まりってところだろうな。もっとペースを落とせ。周りの連中も優秀なんだろう。作業が進むほど中心のお前の作業も増える。だからって夜に明かりをともしてまでやるようなことじゃないだろう。だいたいお前、他の研究はどうしたんだ?三角関数の魔法陣とかやってたんじゃないのか?」

「いえ、あれはニコロ先生にも相談したんですが三角関数表は古代の算術化クラウディオスの定理で角の半分とかを個別に計算して表にしたようなもので、汎用の三角関数の値を求める方法はないという話を聞きまして……。以来、棚上げしているんです。」

「んなもん、今の三角関数表でやってるのと同じ精度が出りゃ十分だろうが。伯爵だって外遊中でいないんだ。無駄に張り切ってないでゆっくり進めろ。院生共だって手が空けば自分の研究やるだろ。金で雇った人足じゃねえんだ。遊ばせたら損とか考えるもんじゃねえよ。」

「伯爵がいないうちに倒れたりしたらダメですよ?伯爵がいれば倒れていいってわけでもないですけど……。そんなやり方してたら会食の時に怒られますよ。」


 結局、夜間作業は禁止されてしまった。明日は講義の日でもないのでプロジェクトは休日にすることを約束させられる。

「お前、建築にはあまり興味ないかもしれんが、人の集まる現場が見たければ見せてやる」

 バルトロメオ先生は正直少し苦手だったで遠慮したいところだったのだが、強引に押し切られてしまった。



 研究室に戻ると、明日はプロジェクトは休みとすることを皆に告げる。皆きょとんとしていたが

「そういえばアラン先生、顔色悪いですね。無理なさらないでください」

 毎日顔を合わせていたら気づかないものなのかもしれない。今気が付いたように言われてしまった。とにかく私の顔色が悪いのは間違いがないようだ。


 ペース配分を落とすことを伝え、空き時間は自分の研究をやるようにと指示する。周囲に疲れている、疲れていると言われると疲れを自覚し始めてしまった。日が傾きだしたころ、京は早めに解散することにした。そして夕食も食べずに寝藁にもぐりこんだ。




 目が覚めると木窓を開く。良く晴れた朝であった。身支度を整え外に出る。今日は休暇にするんだったな。いやあ、よく寝た。やはり随分と疲れていたんだな。酷く腹が減った。市場まで買い食いにいくか。アカデミーの食堂は昼と夕方だけなのである。


 街区からやってくるエミール院生とすれ違う。

「アラン先生、おはようございます。顔色が良くなりましたね。昨日はゆっくりされたんですか?」

 ん?昨日?

「1日休みだって言っていたじゃないですか。僕は平方根の魔法陣の改良をやってみたんですけど、講義の後で見てもらえますか?」

 今日は講義はないはずじゃ……?

「アラン先生?昨日なにされていました……?」

 昨日は夕方いつもより早めにプロジェクトを解散して……。食事もせずに寝てしまってな。

「それ一昨日の話ですよね?」

 一昨日……?

「もしかしてずっと寝てたんですか……?」

 え?そんな馬鹿な……。今日は何日だ……?本当に丸一日寝ていたのか!?

「アラン先生……。無茶しないでくださいね……」

 どうりで腹が減るわけだ……。エミールに憐憫の目で見送られながら、朝の市場に向かった。休日が消滅してしまったことに寂しさを覚えたが、それほど自分がまずい状況にあったことに思い至ると空恐ろしくなるのであった。


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アラン研究室はブラック研究室だったようです。


プロジェクトのメンバーが増えると、コミュニケーションコストが跳ね上がる話は1975年の名著「人月の神話」にすでに書かれています。1964にIBMから出されたOS/360なにそれ?の開発時の失敗談に基づく話で、当時の開発は現代からみると大した規模ではないように見えますが、その時点ですでに大規模開発の苦難は相当なものだったようです。


アラン先生は異世界の知識を持ったチート転生者とかではないので、ソフトウェア開発の黎明期の苦難を魔法陣開発で繰り返してしまう運命にあります。

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