第9話 三角関数表
アカデミー前の広場ではニコロ先生がなにやら玉を転がしていた。
「ニコロ先生。今度はなにをなさっているんですか?」
「おお、アラン君か!先日の投石の計測では細かいことが分からなくてね。分かりやすいところから運動の法則の手がかりを見出そうとして塔から石を落とす実験をしたんだ。どうやら面白いことに石の大きさによらず落ちる速さというのは同じになるようなのだ。しかし、やはり動きが速くてはっきりしない。そこでさらに遅い転がる玉の動きを測っているのだ。転がる玉というのは落ちるのに比べれば遅いんだが、それでもなかなか計測が上手くいかなくてね」
そう言って、緩やかな傾斜のついた溝の掘ってある台で玉を転がしてみせる。
「何が問題になっているんです?」
「細かく時間を測ることができなくて難儀しておる。脈をとりながら合図を出して玉の位置を助手に記録させようとしたんだが、どうにも精度が出ない」
細かな時間を測るというのは難しい。比較的規則正しく、一定のリズムを刻むものとしては脈を数える、つまり心臓の鼓動のようなものを基準にせざるを得ない。もちろん、運動した後など鼓動が速くなることがあるわけだから、その点は留意しておかねばならない。
玉を転がす斜面に人が並び、脈を数える係が発する脈のカウントの声に合わせて玉を転がし始める。脈のカウントにあわせて斜面に並んだ人たちが玉のあった位置を棒で記す。そしてその印の距離を計測して表にまとめる。確かになかなか正確に位置を記録することは難しそうだ。
「そうか、魔法陣だ」
古来より生き物の血が鼓動を伝え、エネルギーを伝播していることは知られていた。体内で作られた魔力は心臓から血を通じて人体の隅々にまで送られる。その魔力は手のひらから魔法陣に伝えられ、魔法陣が鼓動する。血で描かれた文様に生きた人間の鼓動を伝えると、生命の波動が伝わり淡く光り輝く。その文様に工夫を凝らすことで演算を行えるようにしたものが魔法陣である。
ニコロ先生が実験を行っている傾斜台全体を魔法陣にしてしまえばどうか。溝の手前と奥とに一定間隔で回路を掘る。そこに導通インクを塗った玉を転がす。玉がある場所だけ手前と奥との回路が繋がることになる。そこにフリップフロップをおけば繋がった場所を記録することができるはずだ。
魔法陣を起動する魔力は人間の心臓から発せられる。脈をとると一定のリズムを刻むが、それは魔法陣を伝わる魔力のリズムに等しい。魔法陣の鼓動にあわせて玉の位置を正確に記録することが可能になるのではないだろうか。
「面白い!面白いぞ、アラン君。さすがはレンズブルグ領の筆頭魔術師だ!魔法陣にそんな使い方があろうとは!」
回路自体はそう複雑なものにはならないだろう。うちの研究室の助手あたり派遣してやらせてみるとしよう。
「この件はうちからも人を出しましょう。ところでニコロ先生、三角関数について教えてもらいたいのですが、どこかでお時間とれませんか?」
「ふむ?三角関数であれば君は講義を受けていたと思ったが。再履修かね?」
「いえ、先ほどホルシュタイン伯爵の会食で三角関数表を無用とする魔法陣を作れないか?という話題が出ましてね。今はクリシュナ王国から伝わった三角関数表を用いているわけなんですが、そもそもこれはどうやって近似値を得たものなのか教えを請いに来たというわけです」
三角関数表というのは、斜辺の長さを1とする直角三角形を考える場合、その縦と横の辺の長さをいろいろな角度について表にしたものである。
建築分野などで斜めの部材を用いたりする場合は、三角関数表の該当の角度の数字を用いて長さを計算するというのが一般的である。現在一般的に使われている三角関数表は1度刻みのものでクリシュナ王国で作られたものだと聞いている。では、その三角関数表はどうやって作られたのだろう?
「三角関数表そのものの作り方かね?あれは古代の算術化クラウディオスが見出した定理を用いてそれぞれの角度ごとに計算したものだ。正三角形から見出した30度、60度の辺の比、正方形から見出した45度の辺の比、正五角形から見出した36度、72度の辺の比、これらをクラウディオスの定理で半分の角度の辺の比を算出することができる。これらの値をさらに組み合わせて個々の角度の場合について計算をするのだ」
なんと。幾何学的にそれぞれの角度の場合に組み合わせを考えて求めるものだったのか!魔法陣は一定の手続きを行うことには向いているが、個別のケースで判断を要するようなものには向かない。任意の角度について、正弦・余弦が導出できる機械的な手続きがなければ三角関数魔法陣を作り出すことは難しい……。
「そのような方程式は聞いたことがない」
ニコロ先生の答えに私はがっくりとうなだれる。さっそく三角関数魔法陣は暗礁に乗り上げてしまった。
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実験をするにあたってどのように計測するか?というのは難問ですね。ガリレオ・ガリレイ(Galileo Galilei)が1580年代に振り子の等時性を発見した際には脈拍をもって時間を測ったといいます。秒単位でどれだけ移動したかを計測するというのは原始的な道具ではなかなか難しいのです。みなさんも中世の技術でどうやって測ればよいか考えてみてください。
三角関数表というものが出てきました。より後の時代の数学でならテイラー展開によって三角関数の近似値を計算することができますが、ブルック・テイラー(Sir Brook Taylor)によるテイラー展開の導入は1715年まで待たねばなりません。
三角関数表は作中にもある通り30度、60度、36度、72度といった正多角形から求められる角度のものを土台にしてクラウディオス・プトレマイオス(Claudius Ptolemaeus)のトレミーの定理などを駆使して幾何学的に計算して求めて表にしたものだったようです。
コンピュータのような機械で計算しようとするのであれば三角関数の近似値を解析的に求めるアルゴリズムを一般化しないと難しく、当時の技術では難しかったのではないでしょうか。
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